愛の森コラム

2016年09月01日(木)

私は貝にならない

 ふと「私は貝になりたい」という昔々のテレビドラマを思い起こした。事細かな筋は覚えていないが、山中でアメリカ軍の搭乗員を発見した主人公が、隊長から刺殺を命じられたが、怪我をさせただけで留める。終戦後、捕虜を殺害したという虚偽の罪で戦犯として死刑の宣告を受ける。「もう人間には生まれたくない。生まれ変わるなら、深い海の底の貝になりたい」と遺言を残すという物語である。

 津久井やまゆり園の惨劇のその後を新聞その他で追っていくと、多くの人間たちが「貝になってしまった」ようにも思う。一部の関係者の話は、映像や活字に載るが、いまいち私の思いとの齟齬が気にかかる。私自身の感覚のマヒとも思いつつ。障害者の「人権擁護」を語り、「施設解体」を語っていた学識経験者からの映像、活字が殆ど見られない。「私は貝になりたい」心境なのかと邪推をしてしまうが、いまこそ元気ある「人権擁護」「施設解体」を首尾一貫として主張していただきたいと切に願うのである。

 そんな私も慰霊の献花の折に、数名のマスコミの方に囲まれたが、まさに「貝」のごとくノーコメントに徹した。部外者の戯言は、この空前絶後の大事件を語るにはあまりにも無責任であり、実際知的障害者福祉の現場を日々営む者としても安易な想像力に頼る発言は、巡り巡って日々苦悩している当事者への無用な誤解と心労を生んでしまうのではないかという打算が働いたということになる。要は「貝」になることが波風を立てない一番の保身ということである。

 そんな昨今、ひょんなことからあるマスコミ方と知り合い、彼女の「障害者支援施設体験実習」を受け入れることになった。「障害者施設を語るには、障害者施設の生の実態を知ること」と説くとすんなり記者は合意したのである。

 転向することにした。「貝」でいることに違和感を持ち始めたのである。勿論事件の津久井やまゆり園の内情を語ることは出来ないし、語れるものでもないが、障害者支援施設が抱える様々な問題点は、「自ら語るべき」ではないかと考え直したということである。但し、「利用者本位の自己選択、自己決定」「対等な関係」にして「合理的配慮」「個人情報保護」の時代性である。「貝」に留まる方が揶揄や攻撃は受ける可能性は低いのだが、方向性は、社会的評価の低い障害者福祉の現状打破には「自ら語るべき」と思ったゆえである。

 オリンピックが終わり、祭りの後の秋風に包まれる季節となったが、吉田沙保里氏の銀メダル後のコメントの余韻がいまだ強く残る。「・・・ごめんなさい」「・・・申し訳ありません」「お父さんに怒られる」。「貝になりたい」心境の中で、日本国民に対して遮二無二謝罪する姿に過去の戦争の時代と相通じる国威発揚を思うがままに果たせなかった時の深い陰鬱な落とし穴を感じるのである。長時間労働のブラック企業を叩くマスコミが、一日12時間に及ぶ猛特訓の成果を評価するダブルスタンダードに苦虫を噛みつつ、金メダル本位の優勝劣敗の成果主義にささやかに「喝」を入れるべく、「私は貝にならない」気概をまっとうしたと念じる秋である。

2016/09/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年08月01日(月)

津久井やまゆり園の殺傷事件・私の思い

 修羅場に奔走する現場の人間たちの労苦を想像しつつの私の思いです。空前絶後の津久井やまゆり園の惨劇の中で命を落とした利用者の皆さんに慎んで哀悼の意を表したいと思います。また、怪我をされ、入院している利用者の皆さんの一日も早い恢復をお祈りしたいと思います。奮闘する、かながわ共同会の職員の皆さんに心からエールを贈りたいと思います。

 しかしながら、今回のような夜間帯のテロリスト的、また自意識過剰傍若無人的暴挙には、障害者支援施設は、対抗する術がありません。「施設の利用者の安全は・・・?」「社会福祉法人の使命は・・・?」と求められる責任を回避するつもりは毛頭ありませんが、「出来る事」は最大限やりますが、「出来ない事」もたくさんあるということです。

 障害者権利条約に則れば、同じ特性の人間たちが長期に同じ空間で生活することは「人権侵害」であると解釈されます。まさに、障害者支援施設は、条約に反しながら、日々の生活を積み重ね続けているということです。これは「安定」なのか、「侵害」なのか、微妙な判断が求められる時代性です。

 例えば、推奨されるグループホームで万が一惨劇が起これば、被害を受ける人間の数は確実に少なくなります。但しそもそもグループホームの目的は、利用者の自己選択、自己決定に基づく、「くらし」の充実です。しかしながら、障害者支援施設は解体しませんし、その役割は「安定」の名の下に存在し続けると思います。大きな要因は、グループホームの脆弱な構造にあります。入居するには、家賃、食費、共益費(電気代等)が有料です。少なからずの利用者の受益者負担の出所は、障害基礎年金と雀の涙程度の工賃収入であり、「安定」はしていませんし、少額です。また、建設するにしても、賃貸するにしても相応のコストがかかります。近隣の住民の皆さんとの折り合いも必要です。その上に世話人さん(ホーム利用者の支援者)がなかなか見つかりません。

 話を障害者支援施設に戻します。セキュリティは「自助努力」と「警察との連携」と「地域との情報交換」ということでしょう。今回のような衝撃的事件は防げなくとも、地震や台風などの自然災害には役立つと思います。

 昨今は「ポケモンGO」隆盛の時代性ですが、「アナログ」の日々が続いているのがが障害者福祉の世界です。ここは日本国憲法の崇高な理念である「基本的人権の尊重」に則り、障害当事者のかけがいのない日々を再度ご認識いただき、天界に召される19名の思いを忘れない、インクルーシブな社会創生を目指すしかないと思います。そんな思いで締めくくるにはあまりに大きな悲劇ですが、乗り越えて行きたいものです。

2016/08/01 10:26 | 施設長のコラム

2016年08月01日(月)

司馬遼太郎氏に学ぶ「蓋然性」

蓋然性は「がいぜんせい」と読む。「多分そういうことになるだろうという、ものごとが起こる度合い。確からしさ」(角川必携国語辞典)のことである。

今般の参議院選挙は、与党圧勝という結果になった。選挙の争点は、ぼかしのはぐらかしに終始したが、ついに安倍政権の最大目的であった憲法改正の目途がしっかり視野に入ったということになる。衆参両議院の3分の2を超える数の力は「環境権」や「地方自治の拡充」を入れ込みつつ、突き進むと想定される。憲法9条の崇高な理念は、70年という歴史にピリオドが打つ日が喫緊に迫る(?)。時代が求める平和は、強い力が必要であり、そのサバイバルには「力には力」で対抗する自衛の軍隊の整備と、友好国との集団的自衛権による「攻撃は最大の防御なり」の姿勢が必需になったという改正(改悪?)である。

そんな世相を勝手に切り取りつつ、司馬遼太郎氏に学べば、坂の上に暗雲が漂い、登った坂から転げ落ちる「蓋然性」が見え隠れする不吉な予兆を感じる。それは、新たに組み込まれる「緊急事態条項」である。戦前軍部が謀略を繰り返した「統帥権」の自己増殖に相通じる危険性である。天皇の判断が3権(立法、行政、司法)を超えるという「統帥権」が、軍部の独断専行の結果として無謀な戦を繰り返したという苦い歴史である。「緊急事態条項」が拡大解釈され、国民世論を扇動して、国民投票によって自己増殖すれば、その「蓋然性」は新たな戦争に突き進む道ということになるのではないだろうか?

 以上の読み解きは、我が思い、あるいは思い込みかも知れないが、障害者福祉に方向転換すれば、平和国家という前提がなければ、成立し得ない領域への「蓋然性」を司馬遼太郎氏の言葉の中から探すことにしよう。

「100分de名著司馬遼太郎スペシャル」(著者・磯田道史)に学べば、氏の「二十一世紀に生きる君たちへ」というエッセイの中で、「もう一度くり返そう、さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分にきびしく、相手にやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして“たのもしい君たち”になっていくのである」と。磯田氏は、「これからの世界は、『おれが、おれが』と自分の意見や利益を口にするだけでは何も解決しない時代に入ると思います。現在の世界は、どちらが強いか、どちらの利益を優先するかばかりが議論されているように見えます。グローバル化がさらに進めば、異なる価値観を持つ国家や人間どうしが向き合わざるを得なくなる局面が増えてきます。相手よりいかに優位に立つかに汲々とするより、むしろ、相手の気持ちがわかる、共感性が高いといった、どんな文化の違う人にも適応し理解することができる能力が重要になるはずです。その共感性が高いのが日本人なのです」と読み解くのである。司馬遼太郎氏に学ぶ「蓋然性」は、障害者の皆さんへの「共感性」ということになろうか?飯のタネを障害者福祉に委ねた人生とすれば、障害者支援への「たのもしい君たち」の道が責務ということになろう。憲法改正が迫る浮世に情けをかければ、緊急事態においても、「自分にきびしく、相手にやさしく」する、選ばれし権力者たちの重厚なる使命と責務のまっとうを願うのである。

2016/08/01 09:44 | 施設長のコラム

2016年07月01日(金)

障害者差別解消法とは「なんだい?」

 都知事をお辞めになった舛添要一氏の影に隠れて、すでにお蔵入りの乙武洋匡氏の不倫騒動は、著書「五体不満足」に好感触で衝撃を受けた我が懐かしい想いにとっては新たなインパクトをいただいた。果たして不倫として断罪されるべきなのか、いやいや双方合意の上という浮世の情けで顛末を迎えるのか、今やどうでも良い事になってしまった。但し障害当事者がスキャンダルのネタとなったという事は、逆に障害者のエンパワメントのエネルギーを話題提供したという皮肉な効果をたらした。石原慎太郎氏の著書「天才」でブレークしている故田中角栄元総理大臣は、正妻の他に、神楽坂の芸者さんとの間に3人のお子さんをおつくりになった。昔返りすれば、乙武氏のご乱行も武勇伝とは思いつつ、昨今の時代性では妻へのハラスメントに違いなく、断罪されるべきと私は考える。

 障害者福祉の世界は、4月1日より、「障害者差別解消法」が施行された。合理的配慮順守が課せられ、「障害を理由に差別してはならない」ということになった。障害者福祉の現場では、利用者本位の自己選択、自己決定という意思決定権の受容が関わる一人一人の支援者に課せられ、形の上では、障害者への差別はなくなることになる。実態は紆余曲折が続くと想定しつつ、法の趣旨からすれば、障害当事者の皆さんにとってはパラダイスになるはずである。それでは、法の意味合いは、「支える支援者間ではどうだろう?」「支えられる障害者間ではどうだろう?」と考えると複雑な内情が浮かんで来る。

 例えば「合理的配慮」の解釈の受け取り方である。支援者間でその解釈の尺度に齟齬が生じた場合が想定される。上席者がその齟齬に対し、配下の支援者に注意したとする。配下の職員が了解すれば問題は発生しないが、それをイジメと解釈する職員がいたとすれば、その注意は「ハラスメント」に変化する。 また障害者と認定された人間(福祉サービス受給者)の間の関係では、この法はその範疇に該当しないと解釈できる。例えば、軽度の知的障害者の重度の障害者へのイジメや悪態等、例えば、「車椅子の方」から「目の不自由な方」への見下した発言等は、法外ということになる。様々な障害特性とはいえど、その範疇内の差別に対しては、慎重にとり扱うしかないという「なんだい?」(難題)が待ち構える。

日本国憲法第12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責務を負ふ」とある。

憲法を「障害者差別解消法」、国民を「障害当事者」、不断の努力を「普段の努力」、濫用を「乱用」、公共の福祉を「障害者の福祉」に変換し、少し追記して、文章化させていただけば、「なんだい?」(難題)は少しわかり易くなるのではないだろうか?

「この障害者差別解消法が障害当事者に保障する自由と及び権利は、障害当事者の普段の努力によって、これを保持しなければならない。また障害当事者は、これを乱用してはならないのであって、常に、障害当事者間の差別を醸成しないよう、障害者の福祉全体のために、これを利用する責務を負ふ」という事になることを期待しつつ・・・

2016/07/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年06月01日(水)

拡大解釈「自由」と拡大解釈「規律」

ヘイトスピーチへの規制の法整備が国会にて整った。他民族の人間たちへの尊厳を踏みにじる悪態、暴言、いやがらせの行進が、在日朝鮮人が暮らす街々で繰り返される。俄かに考えれば、言語道断である。しかしながら、エセ愛国主義者たちからすれば、集会、結社の自由は憲法で保障され、「悪態、暴言」と言われる言動は、それは価値観の違いにあり、表現の自由であるとの拡大解釈「自由」を主張する。考えようによっては、シリア難民を拒否するヨーロッパの国々の排他的態度やその背景にある愛国主義的他民族排斥運動も根っこの構造は同じということになろう。「国益」「利権」「既得権」は他民族には絶対渡さないということである。つまり、片方の拡大解釈「自由」を守る為には、他方に拡大解釈「規律」という名の「不自由」を課すという構造である。孔子が説く「中庸」の難しさが人間社会を蝕んでいる。狭義に考えると愛の森学園という小さな集団でも、そんな場面が時に発生する。この冬から春にかけて流行したインフルエンザ蔓延の中でのあれこれである。

それは、インフルエンザ感染者と非感染者への対応である。狭い空間に多くの利用者がひしめく入所施設空間では、感染者から非感染者への新たなる感染を防止する術が求められる。これは、利用者への「身体拘束」で最小限認められている「切迫性」「非代替性」「一時性」を拡大解釈して、感染者と非感染者の居室交換等を事業者の選択、決定として一方的に、即座に行う棲み分け策等である。拡大解釈「自由」を保障したい非感染者のためには、感染者に拡大解釈「規律」という束縛をかけるということになる。それは、「安静にして部屋の外に出ないで下さい」ということである。しかしながら、トイレ、食事等の生理的欲求現象の中では、感染者と非感染者の接触が往々に発生し、新たな感染者が生んでしまう危険性が多々現実化する。それではと・・・拡大解釈「規律」をさらにバージョンアップさせて「施錠」する策、つまり「隔離拘禁」することが頭の隅に浮かぶのだが、先の「切迫性」「非代替性」「一時性」の観点からすると、冷静にして慎重な判断が求められることになる。更に、「人権」と「生命」とどちらが大事なのか?・・・との危機管理を問われた場合はどうか? 多分「施錠による感染防止」というハイリスク回避の「生命優先」の可決が想定される。イコール感染者の「隔離拘禁」てある。果たして、福祉の現場でやるべき選択、決定なのか、否か・・・正直言えば、「やりたくない」拡大解釈「規律」であろう。 

もうひとつは、経営への影響である。感染者拡大に伴い、通院付添、一部利用者の帰省対応、通所生活介護利用者の受け入れの一時的停止、ホーム入居者に発生した場合は、感染者の施設受け入れ、ホームで療養する場合の新たな支援者の配置等が必要となる。相応の収入減と支出増となり、経営面のダメージにつながる。加えて、支援者に感染者が出た場合は、ローテーション勤務に穴が空き、その穴埋め、穴埋めの自転車操業綱渡り状態が続くのである。

つまり拡大解釈「自由」の保障という理念、またその裏側に、上記のような修羅場状態の中で拡大解釈「規律」という名「不自由」さが混沌の中で混乱する現実が入所型の障害者支援施設の実態なのである。事は深刻さを増している。ご理解いただければ幸いである。

2016/06/01 09:00 | 施設長のコラム

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