愛の森コラム
2014年10月01日(水)

たじたじ総論

かつて「ニュース23」のキャスターが故筑紫哲也氏だったころ、「多事総論」という筑紫氏の重い思いを語る時間があった。遠く見識は及ばないため、「たじたじ」な我が身の「総論」を記すことにする。天高く馬肥ゆる秋の真っ最中である。世相は混濁の度合いを深めているがせめて心の色だけは澄み切った青空でいたいものである。佐高信氏の「不滅のジャーナリスト筑紫哲也の流儀と思想」に学べば、こんな教訓が書かれている。


 正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
 正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがいい
 まさに、我が身への自戒を促す明瞭、明晰な教訓である。時に我が身は残念ながら・・・

 

  1. 相手を威嚇するような大きな声でしゃべりまくる。
  2. 殆ど相手に異論、反論、オブジェクションの機会を与えない。
  3. 有識者、権力者の存在を引き合いに出し、相手との格差(非対称性)を強調する。
  4. あの人、この人、その人を引き合いに出し、「みんな私と同じ考えだ」と多数派を鼓舞する。
  5. 最後に「私の言うとおりにすればうまく行く」と諭し、ささやかに「あなたのいう事もわかるけど・・・」と相手に偽善の情愛を示す。

こんな我が身に誰かしたと自己責任を回避しつつ、「渡る世間は鬼ばかり」と自己弁護は欠かさない。上記の教訓とは真逆の我が体質に反省のみである。

 阿川佐和子氏の「しかられる力」によれば、「借りて来た猫」が叱る極意という。つまり、「しかられる力」は、「しかる」極意があってこそということになる。


   か ⇒ 感情的にならないこと
   り ⇒ 理由を説明すること
   て ⇒ 手短にすること
   き ⇒ キャラ(個性、性格)に配慮すること
   た ⇒ 他人と比較しないこと
   ね ⇒ 根に持たないこと
   こ ⇒ 個別的におこなうこと


 阿川氏は、著書の中で、父親に怒られ続けた人生を語りつつ、いまや解釈拡大する「パワハラ」の時代性を揶揄しつつ、「しかられる」ことから学んだ力を披露している。昔は隣近所に頑固おやじや世話好きおばさんが存在し、町内会の治安とやりすぎ、また子供のやんちゃに眼を光らせていた。いまや「プライバシーの侵害」「個人情報保護」の時代性は、目配り、気配り、心配りは、いらぬ「お節介」となってしまったということになろう。

 ふと障害者福祉も利用者本位の自己選択、自己決定の強調が、支援側の目配り、気配り、心配りの回避要因となり、「支援」と「お節介」の境界線の判断が難しくなりつつあり、良かれと思って続いて来た福祉労働が、利用者本位の潮流の中で転換期を迎えているのかも知れない。我が思いとしては、たじたじの福祉労働が心配の種である。

2014/10/01 11:01 | 施設長のコラム