愛の森コラム
2014年09月01日(月)

共生には強制的矯正は必要か?

一握りの人間たちの話から始めることにする。言葉が過ぎると不届き千万な解釈改変になる危険性をはらみつつ、自重を肝に命じ考察する。

 まずは、北朝鮮との拉致被害者救済の話である。一握りの権力者が独裁統治する国家の犯罪に対して、平和的友好関係を築き、過去の過ちを精算させようという交渉が続いている。但し、一握りの圧政者に媚へつらう進め方に違和感を抱きつつ、事は拉致被害者の救済にこそ大義が落とし所かも知れない。我が国の姿勢は、概ね了解される手法ということになろう。しかしながら、変わらぬ傍若無人な振舞いに対して、制裁緩和をはからざるを得ない現実には 悔しさが募る。ここは強制的矯正が必要であると考えると・・・。飢えている民、迫害されている民救済の為にも、共生を使命とする先制攻撃が頭に浮かぶが、 軽薄短小な内政干渉であり、平和憲法違反である。妄想は飛躍する。仮に北朝鮮との拉致被害者救済交渉が決裂した場合、その引き換えの経済的恩恵が閉ざされた怒りをテポドン、ノドン発射という暴挙に出た場合はどうだろう。ここは個別的自衛権の力で自衛隊が迎撃する。加えて、アメリカ、韓国という友好国が集団的自衛権の下で、共に戦うという事になろうか?平和憲法の名の下に、悲惨な戦争状態になることは避けたいが・・・。


 そんな仮想現実を憂慮しつつ、一握りの人間の暴挙が大きな事件、不安を引き起こすことがある。例えばストーカーである。ネット社会のストーカーは尾行やいやがらせだけではない。例えば、ITの進化は、過去の露わな姿を全世界に発信させることさえ可能にした(リベンジポルノ)。メール、 ツイッター、ライン等々でも様々な悪辣さで被害者を追い込んで行く。最後は思いを断ち切れない邪念、自暴自棄による殺人行為に及ぶ。共生を乱す一握りの人間たちが被害者を過酷な隠遁生活となるシェルターに追い込む。こんな不条理は強制的矯正しかないと考えると・・・。不埒な輩は別件逮捕その他で厳しく社会から排除すべきと考えるのだが、公権力の出足は鈍い。「事件性がない」「加害者にも人権がある」等々である。同調者を募っての集団的自衛の策も許されない。例えば仇討はご法度である。


 知的障害者福祉の共生もある意味では複雑怪奇である。当事者は日本国の人口構成からすれば一握りである。ゆえに彼らの生活基盤は王道から外れ、その一握りのまた一握りの当事者が入所施設という半ば閉ざされた空間で人生を送っている。プライバシーがなきに等しい、型にはまった集団生活の毎日である。しかしながら、入所施設の中に入ると、多数派は当事者となり、相応の生活水準が保障される。利用者と名を変え、制度上自己選択、自己決定に基づき、例え入所施設で暮らす場合でもご当人が選択、決定した結果ゆえということになる。そう考えると人権とは何か?である。自らが決定した棲家が入所施設 とすれば、「人権は守られている」ということになろう。しかしながら、権利条約が謳う「共生」の中には、入所施設の集団生活は含まれない。あくまでも街の中で普通に暮らすことである。だとすれば、強制的矯正ホーム移動戦略が必要となる。施設に住み続けるのは本人の選択、決定だとしても、それ自体人権侵害に当たるという複雑怪奇な方程式が成立してしまうからである。そんな熱い熱い議論の中で、長い長い残暑が癒えないまま長月に入る。

2014/09/01 14:13 | 施設長のコラム