愛の森コラム

2017年12月01日(金)

年の瀬に考える「思想信条」と「幸福感」

少し前の話になるが、台風21号上陸当日の総選挙は低投票率の影響か、はたまた野党乱立の中での漁夫の利か、自民党大勝で終わった。

サプライズは前原前民進党党首の希望の党への合流であったが、テレビの映像を見る限り、特に当時の民進党の総会では混乱なく承認された経緯に驚かされた。小池希望の党党首(当時)とは相入れない思想信条の民進党在籍の多くの代議士が「選挙の為」「当選の為」とその人気にあやかろうとしたのか、はたまたその他の事由なのかは不明であるが、結果は多くの政治家たちから職を奪う結果となった。

考えてみると国会議員の選挙は、「思想信条」を選択する選挙であり、国民に「幸福感」をもたらす絶好の機会でありながら、その根幹の乖離が露呈したということである。

日本の進路を決定する国権の最高機関を担う人間たちには、「保守」「中間」「リベラル」等の思想信条があってしかるべきなのに、風任せの風見鶏ぶりが敗北を招いたということである。小池氏の「排除」の言葉が、その会話の流れから切り取られ、独り歩きしてバッシングされたが、言い方の節度はあろうと思いつつ、本筋は理に適っている。

「安保法制反対」と拳をあげていた皆さんがタカ派の党首に合流する方が、よっぽど不可思議な事なのである。「選挙目当て」「当選目当て」と揶揄されても致し方ない。その結果として「希望」は「失望」へ成り下がり、結果として落選した議員さん、その議員さんにすがった選挙民の皆さんの「幸福感」は、雲散霧消してしまったということになる。  

 

如何に「思想信条」をないがしろにするとしっぺ返しを食らうということになるのだが、果たして視点をスライドさせて障害者福祉の「思想信条」「幸福感」について考えてみたい。 まずは障害者福祉の時代性であるが、ここ数年の流れを抜粋すれば、以下のキーワードに集約される。

「人権擁護」「成年後見制度」「地域移行」「脱施設」「グループホーム」「利用者本位の自己選択、自己決定」「当事者の意思形成、表出をはかった上での意思決定権」「合理的配慮」「ケアマネジメント」・・・  と乱暴にまとめさせていただく。

ここに各法人、各個人の「思想信条」が垣間見られる。大方の組織(法人)は安定経営を前提にして、その使命として利用者の皆さんの幸福を追求しているわけであるが、記載のキーワードに対する戦略、戦術は、「推進派」「中間派」「慎重派」の3パターンの様相にある。愛の森は、多分「慎重派」の領域ということになる。  

 

私の思いとして、知的障害という重く高いハードルへの距離感を禁じ得ない。バートランド・ラッセルの幸福論の中に、幸福は待っているだけではなく、獲得するものだと説いた後で「しかし、あきらめも、また幸福の獲得において果たすべき役割がある」という箇所である。知的障害として人生をまっとうするためには、社会資本の充実を整えさせつつも、市場原理の競争社会の中で、彼らを無理難題なノーマライゼーションの括りに追い込むことは、逆に本人たちの「幸福感」を奪うのではないかと危惧するのである。

「あきらめ」という言葉が差別意識として独り歩きしないことを願いつつ、愛の森は「棒にあらたぬよう」新年戌年に向かう。関係者皆で一緒に歩みながら・・・

2017/12/01 09:49 | 施設長のコラム

2017年11月01日(水)

体からだ

「人生楽ありゃ苦も有るさ」とのフレーズは、懐かしきテレビに映し出された水戸黄門の挿入歌である。

最近持病が悪化しての通院生活が常態となり、ある面「楽」をさせて戴きつつ、「苦」の受容にいまだ狼狽気味である。つまり、我が身も障害当事者となり、生涯「受容」すべき道程に入ったのである。入院中、ベッドの上で考えたことは、唯我独尊で逍遥していた若かりし日の様々な想い出であり、そこに集った知己の方々との愛しき時間であった。

タイムマシンでもない限り、昔返りなど出来ないと理解しつつ、現実回避のノスタンジーに浸るのも我の萎えた精神状態がなせる半ば幻想かも知れない。ともあれ、「病む」と「健康」への執着がわき出して来るのである。何事も「体からだ」と改めて思い知らされるが、現実に戻ると再起なき病根に憔悴する心理状態に陥る日々である。

 

しかしながら、大枚のお金を戴く治療を受けさせて戴き、社会保険や障害者認定の恩恵を受けるという、これもまた時代性の幸運である。反骨の精神(?) で知的障害者擁護の論陣を張って来たつもりでいた身としても、いざ当事者になって見ると複雑な利用者本位の自己選択、自己決定は今だ藪の中にある。自らマイノリティの権利擁護に立ち上がるべきとの使命を脳裏から我がささやかな良識に指令を送って来るのだが、「体」が反応しない。まずは「体からだ」と自己保身で押し返している毎日である。

長く長く知的障害者の仕事に携わり、いっぱしの擁護論も、いかに上っ面の自己満足であったのかと自省する「内心」がある。あえて「外心」と言う言葉で語るならば、津久井やまゆり園事件の病根が我が深層心理に強く内在していたことを正直に自問自答する「病魔」のささやきと我が受け皿となるべき良識との葛藤が続いている。「いざ鎌倉」ならぬ「いざ真っ暗」の世界に埋没しかねない精神状態の打開が模索される。

そんな日々の鬱屈の解消してくれるのは、やはり「忘却」である。治療の過酷さ、またその忍耐から逃れさせてくれるのは、まさに「忘れる事」なのである。ささやかな使命感の下で、日々のルーチンをこなす仕事の大切さ、また何気ない利用者との喜怒哀楽に心の中で感謝を重ねる日々の「忘却」に安堵する。要は小心者ゆえ、当面病魔の「受容」は猶予して、「忘却」に身を委ねることにするという結論に至ったということである。

 

支援者側としての福祉の王道は、「パターナリズム」ではなく、「パートナーシップ」であるという崇高に理想を多少拡大解釈させていただき、「中庸」の道程の中で、身の丈の「体からだ」の中で、「内心」をリセットさせつつ、「外心」のホウレンソウは正直でありたいと宣言したい。残された我が工程表の最終章に汚点を残さぬよう心したいと考えるのである。季節は彩の錦から、落葉舞い散る風景に移って行く。人生観の重みが深まる季節である。

2017/11/01 09:46 | 施設長のコラム

2017年09月29日(金)

「窮鼠」対「百獣の王ライオン」の近未来

昨今「窮鼠」と思われた北朝鮮が「大鼠」への野望を繰り返す暴挙には、各国の反応同様、私の俄か認識でも言語道断と考える。特にその矛先となっているトランプ大統領率いる「百獣の王ライオン」アメリカの敏感な反応に戦争への危機感を禁じ得ない。 要は「沈静化」を願いつつ「抜本的対策」はなきに等しい。北朝鮮の度重なる核実験、ミサイルの発射とその進化は、危険極まりない領域に達してしまったということである。国家崩壊の危機が生み出したあだ花がキム王朝の独裁継承であり、その手段が「先軍政治」、つまり国民の「幸せ」や「平和」など関知せず、最優先が「軍事力」「チュチェ思想(主体思想)」の強化であり、不満分子を粛清し続ける国家統制と推察する。

我が解釈の背景には朝鮮併合という日本統治の負の遺産がつきまとう。また、その後に朝鮮戦争の経緯として38度線で対峙する休戦状態が続いているという現実がある。

 

あえて、北朝鮮側から想定すれば、「ガダフィ」や「フセイン」」にならないためのサバイバルであろう。米韓合同軍事演習を繰り返す憎っくき敵国が核を保有する超大国アメリカである以上、対決するには、同様にICBMを製造し、核保有国の仲間入りをする事こそが生き残り策と盲信しているということになる。一般国民の窮乏や反逆は、圧迫と粛清で対処する。アメリカの核の傘の下にある日本も同様の敵であり、朝鮮併合の遺恨は「チュチェ思想」に染まった大多数の国民に憎悪を共有させ、運命共同体へと結びつける要因(主体)となる。つまり、民主主義を全否定するためには、カリスマ将軍様の下での傍若無人の強権的政治こそが北朝鮮に残された最終手段ということになろう。多分、障害当事者や障害を持って生まれた人間たちは抹殺、または閉塞された空間の中でもがき苦しんでいるものと想像される。  

 

朝鮮戦争が休戦協定となった頃に義務教育を迎え、高等教育で育って来た私にとっては、アメリカが作ったと揶揄されども崇高な日本国憲法の三大理念「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」は死守しなければならないと考える。但し、「窮鼠がライオンを噛む」事態になろうとしている現実を突きつけられると、アメリカの「飼い犬」からの日本の「独り立ち」を求める論陣が幅を利かせる状況に杞憂する。つまり、憲法の「平和主義」をも改悪して、わが日本の「国家存続」「国体保持」のために「闘犬」へと変身させる策略である。「国家防衛」のための「憲法改正」の下で、軍事力増強、核兵器保持、対ミサイル防衛網整備等の準備と実行が画策されるのでは・・・と杞憂する。

「北朝鮮が暴発したら」「アメリカが先制攻撃をしたら」日本にミサイルが飛んで来るかも知れない。各種防衛システム(PAC3、イージス艦等)の網の目を掻い潜って、テポドン、ノドンが狙うのは、在日の米軍基地であり、自衛隊基地であり、大都市圏の中枢であり、原子力発電所かも知れない。〇月×日の△時□分、Jアラートが鳴り響いき、5分後に大爆音と天空に火の玉が現れる。電磁パルス攻撃が日本を壊滅に導く瞬間の蛮行である。想像力は恐怖感を醸し出す。

 

子供の頃、ある先生から聞いた「みんな戦争はしたくはないと思っています。でも、なくならないのです」が蘇る。始まってしまったら、多く命が失われる。シリア難民や追われるロヒンギャの人たちの映し出される悲痛な表情が重く重く脳裏に浮かぶ。そんな危機的事態の中で、平和の祭典が韓国ピョンチャンで開かれる。人類の英知が試される近未来である。

2017/09/29 18:04 | 施設長のコラム

2017年09月01日(金)

「説明責任」と「カバナンス強化」

先月、本法人のグループホームで大きな事件が発生し、一部の新聞に掲載された。

事は傷害事件であるのだが、加害利用者、被害利用者のひととなり、またその経緯はここでは触れない。私の判断として、その整理整頓が実に厄介であり、相互の人権の観点、また関係者の立場性や思想信条の自由が複雑にからむ故である。ご了解いただきたい。

但し各方面から説明責任が求められる。民主主義(ここでは利用者中心主義)を尊び、関係者各位に事件の内実の説明をすることになる。まずは、経営者たる理事長、理事会。次に監督権者である行政(県と市の障害福祉課)。次に本法人の全職員への説明。それから、順不同で記載すれば、警察、病院(被害利用者の緊急搬送先)とのやりとり、加害利用者の身元引受人と被害利用者の身元引受人。第三者苦情解決委員にオンブズマン。後見人に他利用者の身元引受人の皆さん。評議員に監事。施設協会の役員各位に地区施設連絡会の施設長各位。それから利用者の皆さんとグループホーム近隣の住民の皆さんということになる。リスクマネジメントを強化して来た積み重ねは、いろいろな方々のご支援によって利用者支援が成り立っている現実を再確認させられるとともに、今回のようなクライシス状態に陥るとその説明責任のしんどさ、煩雑さを痛感する。今後は癒えた被害利用者のフォローを継続しつつ、司法の場で問われるかも知れない加害利用者を側面が見守ることになろう。

 

こんな混迷の中で、職員間でも今回の事件へのひとりひとりの総括が始まる。日頃の鬱積が露呈する確執を内在させつつ、ガバナンスの強化が必要となる事態である。福祉労働特有の寛容さは当面封印である。時に関係者の様々な思想信条の自由は、犯人探しの危険性を有する。「あの時にこうやっておけばよかったのに・・・」「前々から加害者のAはホーム受け入れるべきではなかったんだ!」「最終的には施設長の責任だから・・・」「物言えば唇寒し・・・だよ」等。噂はネットを通じて拡散して行くかも知れない。そうあってはならないと思いつつ、腹の探り合いは様子見となる。もしかしたら、職場の冷静さ、いや沈黙の要因こそ、関係者間の責任のなすり合い、腹の探り合いのカオスが醸し出す故かも知れないと思いつつ・・・?多少卑屈になり過ぎているかも知れないが・・・?  

利用者同士の内輪ゲンカであれば、その場の「ごめんなさい」で済むのだが、傷害事件となると警察が介入し、本人同士の関係から法人責任へと拡大してしまう時系列をはらむ。「予兆があったのでは?」「安全管理義務違反では?」等。当事者の自己選択、自己決定の落とし穴は、一部の反社会的行動特性を持つ当事者であると内心俄かに思うことがあるが、あくまでも本質は「罪を憎んで人を憎まず」と肝に命じる。つまり、赤裸々なカミングアウトこそ「内心の自由」への不当介入となってしまう。例えば「果物ナイフ」の所持。「ヒトを刺そうと思って買った」は犯罪ではない。ヒトを刺してしまえば犯罪となるが、「所持すること」自体、「思うこと」自体は犯罪ではない。しかしながら、職員個々の内心の自由を無碍にしつつ、ガバナンス強化を図らなければならない我が傲慢さの中で、現在進行形の愛の森はピリピリ状況下にある。「こんな常態が継続的にうまく機能するわけはない」と理解しつつ、加害利用者の行く末を案じつつ、迷走の果ての光明を信じつつの模索が続く。

2017/09/01 09:33 | 施設長のコラム

2017年08月01日(火)

忘れてはならない事

加齢化と不摂生の余波で、7月のはじめに一週間程の入院を体験した。

20年ほど前、長期の入院を体験したことも有り、「たいしたことはない」と甘い読みをしていたが、いざ入院となるといろいろな悲喜交々の体験をさせていただき、日頃の利用者への我が関わりの傲慢さを痛切に自戒することになる。

つまり、権力と権威に支配されている患者側に立つと、「患者様」との定型化された顧客満足度の関わりをいただきつつも、腕にネームバンドをとりつけられたモルモット状態に置かれる時と日々が流れたということである。

細かい気づきは我が心の中にしまい込みつつ、さてこれからの人生、残された福祉の道のラスト行程にこの経験値をどう活かすかにかかっているということになろう。

 

入院中は、オペの前後の忙しなさ以外は、暇をもてあそぶ時間が流れた。

持ち込んだCDを聴きつつ、また雑誌や新聞に目を送りつつ、しかしながら、実際は備え付けのテレビの音声を子守唄代わりにして転寝する時間が大半を占めた。最近、「すぐに忘れてしまう」ことにほとほと呆れているのだが、入院中に目を通した情報の中身もいまだ半月前のことではあるが、かなりの部分を忘れていることにまたしても呆れる今現在である。

その中で、インパクトがあったのは三木清氏の「人生論ノート」であり、「100分de名著」(NHK・岸見一郎)で学ばせていただいた。三木氏は、戦前、戦中をありのままに表現し、また耐え忍び、戦後獄死する稀有な人格と根性を持ち合わせた哲学者である。

ベッドの上に身を置く以上、視覚が本に集中する以外は、聴覚の反応は、多床室の他患者たちの話し声や時々巡回して来る看護師の皆さんの優しい声掛けくらいである。壁や天井やカーテンはいかにも病院ならではの模様と形態の空間が視界の大半である。おのずと孤独感にさいなまれる。三木氏は、こんな分析をしている。「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである」。解説する岸見氏によれば、「人が「自分は孤独だ」と語る時、それが周囲に認められたい、注目されたいという社会化された気持ちからくるものであれば、それは「寂しい」という孤独感です。しかし、私は一人であるという自覚に基づいた意識であれば、それはむしろ知性に属する。そこに顕れるのは寂しさより勇気、あるいは覚悟です」というのだが・・・。ふと亡くなった小林麻央さんの闘病映像が脳裏をよぎる。軽率な感想を述べることは出来ないが、麻央さんの勇姿が思い浮かんだのである。

退院して今覚悟することは、「忘れてはならないことがある」ということかも知れない。命は有限であるという現実は、病院内では悲喜交々である。生ある者は、必ず訪れるXデイを迎える前に、やるべきことは一所懸命取り組むしかないということになろう。津久井やまゆり園の諸々の事情で名前を明かせない19名の命が一瞬の蛮行によって最後の日を迎えた悲劇も蘇る。「命あっての物種」を再認識する。そんな単純明快な独り言を心に誓う今現在である。

 

季節はいつのまにか猛暑となった。71年目の戦後を迎える。共謀罪という蛮行の中で再度平和の祈りを念じるのである。愛の森はといえば重い宿題を抱え、ピンチの日々にあるが、命の尊さを繰り返し語るべき「忘れてはならない」季節に入る。

2017/08/01 08:42 | 施設長のコラム

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