都知事をお辞めになった舛添要一氏の影に隠れて、すでにお蔵入りの乙武洋匡氏の不倫騒動は、著書「五体不満足」に好感触で衝撃を受けた我が懐かしい想いにとっては新たなインパクトをいただいた。果たして不倫として断罪されるべきなのか、いやいや双方合意の上という浮世の情けで顛末を迎えるのか、今やどうでも良い事になってしまった。但し障害当事者がスキャンダルのネタとなったという事は、逆に障害者のエンパワメントのエネルギーを話題提供したという皮肉な効果をたらした。石原慎太郎氏の著書「天才」でブレークしている故田中角栄元総理大臣は、正妻の他に、神楽坂の芸者さんとの間に3人のお子さんをおつくりになった。昔返りすれば、乙武氏のご乱行も武勇伝とは思いつつ、昨今の時代性では妻へのハラスメントに違いなく、断罪されるべきと私は考える。
障害者福祉の世界は、4月1日より、「障害者差別解消法」が施行された。合理的配慮順守が課せられ、「障害を理由に差別してはならない」ということになった。障害者福祉の現場では、利用者本位の自己選択、自己決定という意思決定権の受容が関わる一人一人の支援者に課せられ、形の上では、障害者への差別はなくなることになる。実態は紆余曲折が続くと想定しつつ、法の趣旨からすれば、障害当事者の皆さんにとってはパラダイスになるはずである。それでは、法の意味合いは、「支える支援者間ではどうだろう?」「支えられる障害者間ではどうだろう?」と考えると複雑な内情が浮かんで来る。
例えば「合理的配慮」の解釈の受け取り方である。支援者間でその解釈の尺度に齟齬が生じた場合が想定される。上席者がその齟齬に対し、配下の支援者に注意したとする。配下の職員が了解すれば問題は発生しないが、それをイジメと解釈する職員がいたとすれば、その注意は「ハラスメント」に変化する。 また障害者と認定された人間(福祉サービス受給者)の間の関係では、この法はその範疇に該当しないと解釈できる。例えば、軽度の知的障害者の重度の障害者へのイジメや悪態等、例えば、「車椅子の方」から「目の不自由な方」への見下した発言等は、法外ということになる。様々な障害特性とはいえど、その範疇内の差別に対しては、慎重にとり扱うしかないという「なんだい?」(難題)が待ち構える。
日本国憲法第12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責務を負ふ」とある。
憲法を「障害者差別解消法」、国民を「障害当事者」、不断の努力を「普段の努力」、濫用を「乱用」、公共の福祉を「障害者の福祉」に変換し、少し追記して、文章化させていただけば、「なんだい?」(難題)は少しわかり易くなるのではないだろうか?
「この障害者差別解消法が障害当事者に保障する自由と及び権利は、障害当事者の普段の努力によって、これを保持しなければならない。また障害当事者は、これを乱用してはならないのであって、常に、障害当事者間の差別を醸成しないよう、障害者の福祉全体のために、これを利用する責務を負ふ」という事になることを期待しつつ・・・