ヘイトスピーチへの規制の法整備が国会にて整った。他民族の人間たちへの尊厳を踏みにじる悪態、暴言、いやがらせの行進が、在日朝鮮人が暮らす街々で繰り返される。俄かに考えれば、言語道断である。しかしながら、エセ愛国主義者たちからすれば、集会、結社の自由は憲法で保障され、「悪態、暴言」と言われる言動は、それは価値観の違いにあり、表現の自由であるとの拡大解釈「自由」を主張する。考えようによっては、シリア難民を拒否するヨーロッパの国々の排他的態度やその背景にある愛国主義的他民族排斥運動も根っこの構造は同じということになろう。「国益」「利権」「既得権」は他民族には絶対渡さないということである。つまり、片方の拡大解釈「自由」を守る為には、他方に拡大解釈「規律」という名の「不自由」を課すという構造である。孔子が説く「中庸」の難しさが人間社会を蝕んでいる。狭義に考えると愛の森学園という小さな集団でも、そんな場面が時に発生する。この冬から春にかけて流行したインフルエンザ蔓延の中でのあれこれである。
それは、インフルエンザ感染者と非感染者への対応である。狭い空間に多くの利用者がひしめく入所施設空間では、感染者から非感染者への新たなる感染を防止する術が求められる。これは、利用者への「身体拘束」で最小限認められている「切迫性」「非代替性」「一時性」を拡大解釈して、感染者と非感染者の居室交換等を事業者の選択、決定として一方的に、即座に行う棲み分け策等である。拡大解釈「自由」を保障したい非感染者のためには、感染者に拡大解釈「規律」という束縛をかけるということになる。それは、「安静にして部屋の外に出ないで下さい」ということである。しかしながら、トイレ、食事等の生理的欲求現象の中では、感染者と非感染者の接触が往々に発生し、新たな感染者が生んでしまう危険性が多々現実化する。それではと・・・拡大解釈「規律」をさらにバージョンアップさせて「施錠」する策、つまり「隔離拘禁」することが頭の隅に浮かぶのだが、先の「切迫性」「非代替性」「一時性」の観点からすると、冷静にして慎重な判断が求められることになる。更に、「人権」と「生命」とどちらが大事なのか?・・・との危機管理を問われた場合はどうか? 多分「施錠による感染防止」というハイリスク回避の「生命優先」の可決が想定される。イコール感染者の「隔離拘禁」てある。果たして、福祉の現場でやるべき選択、決定なのか、否か・・・正直言えば、「やりたくない」拡大解釈「規律」であろう。
もうひとつは、経営への影響である。感染者拡大に伴い、通院付添、一部利用者の帰省対応、通所生活介護利用者の受け入れの一時的停止、ホーム入居者に発生した場合は、感染者の施設受け入れ、ホームで療養する場合の新たな支援者の配置等が必要となる。相応の収入減と支出増となり、経営面のダメージにつながる。加えて、支援者に感染者が出た場合は、ローテーション勤務に穴が空き、その穴埋め、穴埋めの自転車操業綱渡り状態が続くのである。
つまり拡大解釈「自由」の保障という理念、またその裏側に、上記のような修羅場状態の中で拡大解釈「規律」という名「不自由」さが混沌の中で混乱する現実が入所型の障害者支援施設の実態なのである。事は深刻さを増している。ご理解いただければ幸いである。