歎異抄(親鸞・筆者は唯円)に学べば、「雑毒(ぞうどく)の善」(煩悩の毒の混じった善のこと)とは「この世は生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません」と説く。
熊本地震の現実は、あまたの倒壊した住宅の数々、青いビニールシートに隠された絶命されたとおぼしき人間たちの救出、いや搬出、えぐりとられた茶色の山肌、威風堂々だった熊本城の哀れな落瓦、落下した大きな橋脚、避難所に押し詰められたあまたの人間たちの焦燥と行列・・・。テレビ画面に日夜映し出される。その臨場感と緊張感の青天の霹靂の現実が、まさに熊本の陽春の空の下を赤裸々に浸食している。
東日本大震災から5年と1か月後の悲劇が早く落ち着きを取り戻し、復興へと向かう事を切に願いつつ、身の丈で我が思いを実行したいと思うのだが、所詮「雑毒の善」である。「何が出来るの?」と自虐的に問い詰めれば、ささやかな募金が関の山ということになろう。災害ボラとして、勇猛果敢に現地へ行ってみよう・・・という難行は、我が自力では土台無理である。ここも、親鸞に学びつつ、「易行・・・他力の仏道」に帰依するしかない。
そんな思いにかられつつ、熊本県、近隣各県の障害者入所支援施設では、日々余震に怯えつつ、どんな運営を続けているのだろうか? 多分、複数の管理職は泊まり込みの寝ずの番をし、物品、食品、薬品等の調達、身元引受人とのやりとり等に奔走している事だろう。
現場の職員たちも自らの家族、親族を労りつつも、利用者支援の最前線で奮闘している事だろう。もしかしたら、施設からの脱出を余儀なくされた職員たちは大勢の利用者をマイクロバス等に分乗させて、受け入れ先の福祉避難所や遠方の障害者施設に身を寄せているかも知れない。また、職員の中には家族、親族に生命の危機、住宅の倒壊等の悲劇のさ中にあるかも知れない。こんな切ない思いの数々も「雑毒の善」に違いない。愛の森学園は通常通り、朝昼夕の3食が利用者に提供され、職員も就業規則に従い、職務をまっとうしているからである。私も17:30には、退勤の時間を迎えることが出来るのである。
あまり危機感を煽ってはいけない緊急事態とは思いつつ、避難住民が「我慢の限界」「堪忍袋の緒が切れた」とばかりに飽和状態に達し、避難所の秩序が崩壊し、無政府状態になったら大変なことになる。まずは「衣食足りて礼節を知る」との故事に習い、物流を円滑に機能させることが肝心であろう。警察、消防、自衛隊+米軍、災害ボラの活用ということになろうか? 加えて、広域避難である。「我が家から離れる」事への抵抗感はあろうが、治安は警察や自衛隊に委ね、余震のない遠方への「住」である。ホテル等を一定期間、国費等で借り上げ、滞在するということである。「子ども教育は・・・」「高齢者、障害者の介護は・・・」となるが、まずは元気な人間たちが支えつつの限定的集団疎開がベターと考えるのだが・・・?
しかし、これも「雑毒の善」になろう。大きな流れとしては、消費税10%はこれでなくなるだろう。深読みすれば、東日本大震災の復興、2020年の東京オリンピック、原発の再稼働等に暗い影を落とすかも知れない。その影で気になるのが。障害者福祉への負の影響である。「地域移行」は大丈夫か? これも「雑毒の善」であるが・・・