愛の森コラム
2016年02月01日(月)

さるすべり 君を想いて 僕は猿

 神学論争とは「結論の出にくい議論」のことであり、同義語に「水掛け論」「堂々めぐり」の表現がある。これはネットで学んだ俄が知識である。如月の寒い朝にとある公園の「さるすべり」の老木を見ながら、一句。そして「結論の出来にくい話」を考える。 「さるすべり 君を想いて 僕は去る」(君とは当事者である)
 昨今の知的障害者福祉は寒風の中で、自らが乾布摩擦で放熱するよう仕向けられた時代性かも知れない。その寒風とは・・・?「結論が出にくい話」の始まりである。

 「知的障害者の意思決定支援の在り方に関する検討委員会の意見」(公益財団法人日本知的障害者福祉協会・平成27年9月8日)によれば、知的障害当事者の「意思決定」について以下の考えに至ったとの事である。

 意思決定支援とは、障害者本人の意思が形成されるために、理解できる形での情報提供と経験や体験の機会の提供による「意思形成支援」、及び言葉のみならず様々な形で表出される意思を汲み取る「意思表出支援」を前提に、生活のあらゆる場面で本人の意思が最大限に反映された選択を支援することにより、保護の客体から権利の主体へと生き方の転換を図るための支援である。

 筋論としてはごもっともと思いつつ、様々な疑問、難問、鬼門が頭の中を駆け抜ける、 要は「無理でしょ!」ということである。勿論温度差の問題性であり、支援する姿勢の提起と想像しつつも、現実味をまったく感じない「結論の出来にくい話」である。ここで変句する。「さるすべり 君を想いて 僕は猿」。ここは猿知恵をお借りするしかない。

 空想の世界から奇特な老猿が我が頭の中に出現する。「見ざる」「聞かざる」「言わざる」ではない「言いたい放題して猿」である。一句読んでいただく。  「ささる棘 抜きようやく(要約?) 痛み去る」

 「結論の出にくい話」を私なりに要約すれば、知的障害者に寄り添う見せかけの問題提起はご法度ということであり、「保護の客体」から「権利の主体」と検討委員会の面々はのたまうが、障がいという神からの定めを受け入れざるを得ない人生は「保護が主体」であるべきであり、「権利」は日本国憲法に準じれば良いのである。いやいや知的障害者の皆さんにとっての現実はそんな生易しい世の中ではないとのご主張も相応の説得力があるとは考える。しかし、少子高齢化で借金を重ねる国家財政の中では身の丈は必然なのである。日々悪戦苦闘している現場の福祉労働者に「結論の出にくい話」の迷路に迷い込ませる空理空論は「喝」である。

2016/02/01 11:23 | 施設長のコラム