いまだインフルエンザと大雪の再来を不安にかられつつ弥生3月を迎えた。桜のたよりを心待ちにしながら、冷え冷えとした空気に身も心も耐え忍ぶ日々が続く。
ピョンチャンオリンピックの日本人選手の大活躍に感銘と感激をいただきつつ、近々に静かなパラリンピックの熱戦が始まる。崇高なクーべルタン男爵が描いた商売っ気なし、政治色なしの「オリンピック」は過去の遺物となりつつあるようだが、これも進化のさだめとして理解するしかないのかも知れない。薬漬けの国威発揚、冠レース、拝金主義、エリートアスリート育成、国家による管理、政治家達の権謀術数、闇取引の臨戦の場に成り下がってしまったようで、理想から乖離し続ける未来への心配が走る。せめてパラリンピックには優勝劣敗だけではなく「オリンピック」の種火(参加することに意義がある)だけは頑として残していただきたいと切に願うのである。そんな世相の中でも愛の森は、寒風の外とは真逆なヒーターのきいた温室空間の中で、年度末への総決算期を迎える。概略すれば、障害当事者の意思決定の有り様、生活スタイルの有り様に対して「目標値を為し得たか?」「為し得なかったか?」の採点評価づくりである。昨年4月にはかなりセンセーショナルな宿題(利用者個別の意思決定権)をいただきつつ、いまだ四苦八苦の状態から脱し得ないのだが・・・。私自身も私的にも、難題をかかえつつ、年度の締めを司る日々にある。下記は、そんな中で私自身の心情吐露である。
要は、憲法11条の「基本的人権」、25条の「生存権」への感謝ということになる。但し、難題は、自らの障害認定を認知するハードルの高さに狼狽しているということである。原因は、透析治療が始まったことにある。その治療には高額の医療費が投入され、身体障害者として認定され、様々な権利、権益が付与される。他者がその状況に至った場合は、かかわる支援者は制度、法律に則ったサービス受給への手助けに努め、当事者の生活の質を死守すべき努力が使命となる。しかしながら、ある時点から、サービス提供者が受給者に変わった場合の狼狽を味わうと自らのささやかな矜持を崩壊させかねない何とも言い知れぬ挫折感にさいなまれるのである。これは完全な我が独善の崩落であり、甘えの構造の結果かも知れないと思いつつ、その揺れの中での自問自答の毎日が続いている。つまり、サービスの供給者が受給者に変質した場合に、殊の外憲法の崇高な理念に救いを求める日々、いや感謝の心情が湧き出すのである。健常者として世の中を立ちまわっていた過ぎ去りし日々には、「平等」「公平」「共助」と強く主張していた小生なのだが、社会的弱者の立場として「権利」「恩恵」を預かる側に転換すると、「平等」「公平」「共助」が如何に長い長い歴史の中で培われた偉大な人類の思考回路の結実であり、うらを返せば、ガラス細工のような脆い構造の積み重ねであるということを実感する。人類が進化の中で貨幣を生み出し、その資産の多寡によって、持つ者と持たざる者の間に格差が現出し、徐々に肥大化、その不平等の打開の英知が「基本的人権」「生存権」の保障に繋がったと想定すれば、我が身はその歴史の下で、障害当事者としての生き方が保障されたということになる。
弥生の寒風の中で、愛の森という小さな社会の中で「参加することに意義がある」を再度見つけ出し、また見直して、自らの方向性が試される自問自答を繰り返す。
桜の花を心待ちにしつつ、また散り際をも予見しつつ、新年度を迎える。