愛の森コラム
2018年02月01日(木)

不思議な世界

 新年度早々の愛の森の初夢、いや初サプライズは、利用者の所在不明であった。帰省中の出来事であり、3日後に実父に救いを求め、「一件落着」とあいなった。私自身多少の事前策欠如の罪悪感に苛まれる日々は終了したのだが、はたして「一件落着」なのだろうか?

 まずは、「所在不明」の原因追及が始まる。「年末年始のウキウキムードに本人なりの満足感がいまいち足りなかったのではないか?」との分析となる。「今回はお年玉を知人から受け取っていたらしい」との経済的にリッチであった原因が加わる。「ここ数年所在不明がなかったので、支援者に安心感があったのではないか?」「帰省前の本人との話し合いをしなかったのは今から考えると痛恨のミスだった」との反省の弁も聞かれる。「性的な高ぶりによる放浪癖は如何せん根本的改善は難しい」「社会性を逸脱する利用者本位の自己選択、自己決定は決定的な負の要因なのだが、その習慣性への抑止手段は皆無に等しい」「本人の特性として放浪癖をせめるより、そうした状況を改善させるべき支援者側の姿勢が問題である」等、百家争鳴のディベートはつきない。しかしながら、本人はどう考えているか?実は意外に淡泊である。怒られようと叱られようと、時は流れ、拡散することを百も承知済みであり、「手荒なことはされない」という人権擁護の禁断の世界を知り尽くしているのである。そのうち職員が折れて来ると本能的に察知しているということである。知的障害ゆえの想像力、善悪の判断能力の稚拙さ、他者が心配したり、憤ったりしている気持ちの感受性の欠如は、残念ながら決定的な阻害要因である。「悪かった」「二度としない、いや出来ない」「社会的制裁が怖い」という社会性の理解力が疎ければ疎いほど、再犯(?)は必然となる。ここが知的障害者の特性であり、利用者本位の意思決定権の最大のネックなのである。最後に出て来るのが、恩情派、ないし原理主義者からの諭しである。「支援者が駄目だから、利用者は問題行動を起こすのだ」という類の論陣である。「そもそも愛が足りないから、いけない」「利用者の意思形成、意思表出を怠ったがゆえの行動なのである」「利用者本人が一番困っているのであり、救いを求めるための行動なのである」等。所在不明を繰り返す利用者がいつのまにか善人となり、そうした行動に追いやったかのような支援者が悪人となるという構図である。

 ともあれ、結果として「一件落着」の後は、本人は通常の生活に戻り、多少の反省の色を見せながら、三食お風呂付の生活に戻っている。関わる支援者はその現実への様々な温度差の中で、本人と自らの微妙な距離感に困惑しつつ、されど無視はせずに平常心をつくろいながら接している。放浪は罪ではなく、「特性」なのである。「反省を促す」ことは必要と思いつつ、「悪い」と真に理解出来ない(しない?)以上、「説得」は説得する側の自己満足だけに帰結してしまう。「様子をみる」ことは、「ネグレクト」と誤解されかねないため相応の時間の後は普段に戻るしかない。結論はまたとしても猶予である。今度また彼が所在不明になった時に考えることにしよう。そうさせないためには、がんじがらめの日課強制しかないと我が心の中で悪魔が囁くのだが、それは絶対に出来ない相談である。知的障害者福祉は「不思議な世界」なのである。

2018/02/01 09:00 | 施設長のコラム