愛の森コラム
2017年11月01日(水)

体からだ

「人生楽ありゃ苦も有るさ」とのフレーズは、懐かしきテレビに映し出された水戸黄門の挿入歌である。

最近持病が悪化しての通院生活が常態となり、ある面「楽」をさせて戴きつつ、「苦」の受容にいまだ狼狽気味である。つまり、我が身も障害当事者となり、生涯「受容」すべき道程に入ったのである。入院中、ベッドの上で考えたことは、唯我独尊で逍遥していた若かりし日の様々な想い出であり、そこに集った知己の方々との愛しき時間であった。

タイムマシンでもない限り、昔返りなど出来ないと理解しつつ、現実回避のノスタンジーに浸るのも我の萎えた精神状態がなせる半ば幻想かも知れない。ともあれ、「病む」と「健康」への執着がわき出して来るのである。何事も「体からだ」と改めて思い知らされるが、現実に戻ると再起なき病根に憔悴する心理状態に陥る日々である。

 

しかしながら、大枚のお金を戴く治療を受けさせて戴き、社会保険や障害者認定の恩恵を受けるという、これもまた時代性の幸運である。反骨の精神(?) で知的障害者擁護の論陣を張って来たつもりでいた身としても、いざ当事者になって見ると複雑な利用者本位の自己選択、自己決定は今だ藪の中にある。自らマイノリティの権利擁護に立ち上がるべきとの使命を脳裏から我がささやかな良識に指令を送って来るのだが、「体」が反応しない。まずは「体からだ」と自己保身で押し返している毎日である。

長く長く知的障害者の仕事に携わり、いっぱしの擁護論も、いかに上っ面の自己満足であったのかと自省する「内心」がある。あえて「外心」と言う言葉で語るならば、津久井やまゆり園事件の病根が我が深層心理に強く内在していたことを正直に自問自答する「病魔」のささやきと我が受け皿となるべき良識との葛藤が続いている。「いざ鎌倉」ならぬ「いざ真っ暗」の世界に埋没しかねない精神状態の打開が模索される。

そんな日々の鬱屈の解消してくれるのは、やはり「忘却」である。治療の過酷さ、またその忍耐から逃れさせてくれるのは、まさに「忘れる事」なのである。ささやかな使命感の下で、日々のルーチンをこなす仕事の大切さ、また何気ない利用者との喜怒哀楽に心の中で感謝を重ねる日々の「忘却」に安堵する。要は小心者ゆえ、当面病魔の「受容」は猶予して、「忘却」に身を委ねることにするという結論に至ったということである。

 

支援者側としての福祉の王道は、「パターナリズム」ではなく、「パートナーシップ」であるという崇高に理想を多少拡大解釈させていただき、「中庸」の道程の中で、身の丈の「体からだ」の中で、「内心」をリセットさせつつ、「外心」のホウレンソウは正直でありたいと宣言したい。残された我が工程表の最終章に汚点を残さぬよう心したいと考えるのである。季節は彩の錦から、落葉舞い散る風景に移って行く。人生観の重みが深まる季節である。

2017/11/01 09:46 | 施設長のコラム