労使関係の軋轢は55年体制以来の難物であるが、福祉施設の労使関係は実に巧妙なるお役人のらつ腕でカオス状態に埋没している。
①処遇改善の上乗せは、直接処遇支援員のみに限定し、その他の職員には各事業者の自己決定(持ち出し)に委ねさせるというやり方。
②時代が求める相談支援は、赤字覚悟の不採算事業として押し付けるというやり方。
職場の労使関係の和を乱しかねない暴挙は、福祉労働種を使命感という錦の御旗の下であやつる褒め殺し体質を感じるのは我が身の僻みだろうか?
ピケティさんに言わせれば、「資本収益率(r)は、経済成長率(g)より大なり」との事らしい。週刊朝日の記事の解説によれば、「資本主義社会では、普通の労働者よりも株や土地などを投資する富裕層のほうがますます豊かになるということ」だそうである。我が加齢化している脳みそではその解析は難物だが、どうも富める者はもっと富み、貧しき者はなかなか這い上がれない構造が我が日本の現実ということになるらしい。せめて福祉労働者の給与水準がドクター並とまでは望まないにしろ、看護師並、教職員並になれば、労使関係はうまく行くのにと思うのは、やっぱり世間知らずの僻みだろうか?
そんな労使を離れて老子の話をする。実在したのか、想像上のカリスマだったのか、いまだ不確定のようだが、その高説は意味深である。「100分de老子×孫子」から引用する。
老子は「上善は水のごとし」と説く。「水は大地に恵みを与え作物を育てたり、人々の喉を潤したりと、さまざまな利益を与えてくれます。さらに川を流れる水に目を移すと、しなやかに方向を変えながら岩を避けるようにして流れていきます。そして最終的には、人の嫌がる低い場所(濁っていたり、湿地であったりする場所)に落ち着きます。こうした水のありようを人間にたとえてみると、争いを好まない謙虚で善良な聖人の姿になります」ということである。
世間知らずの我が身が社会福祉法人愛の森の施設長を司るからには、「自らに水のごとく」を課すことが出来るかは不確定としても「人の嫌がる場所に落ち着く」覚悟と寛容さが求められるということになろうか?上記の①②の不届き千万な蛮行への怒りの吸収と打開こそが「人の嫌がる場所に落ち着く」ことにつながるということになろうか?
前月のブログでは年度を一年読み違える間違いを起こしたが、2015年度は2016年度を視野に入れつつ、二年計画の奮闘が始まると弁解がましくも宣言することにする。「自らに水のごとく、争いを好まない謙虚で善良な聖人(我が身として常識人)」を目指したいと考える新年度の始まりである。