先月、本法人のグループホームで大きな事件が発生し、一部の新聞に掲載された。
事は傷害事件であるのだが、加害利用者、被害利用者のひととなり、またその経緯はここでは触れない。私の判断として、その整理整頓が実に厄介であり、相互の人権の観点、また関係者の立場性や思想信条の自由が複雑にからむ故である。ご了解いただきたい。
但し各方面から説明責任が求められる。民主主義(ここでは利用者中心主義)を尊び、関係者各位に事件の内実の説明をすることになる。まずは、経営者たる理事長、理事会。次に監督権者である行政(県と市の障害福祉課)。次に本法人の全職員への説明。それから、順不同で記載すれば、警察、病院(被害利用者の緊急搬送先)とのやりとり、加害利用者の身元引受人と被害利用者の身元引受人。第三者苦情解決委員にオンブズマン。後見人に他利用者の身元引受人の皆さん。評議員に監事。施設協会の役員各位に地区施設連絡会の施設長各位。それから利用者の皆さんとグループホーム近隣の住民の皆さんということになる。リスクマネジメントを強化して来た積み重ねは、いろいろな方々のご支援によって利用者支援が成り立っている現実を再確認させられるとともに、今回のようなクライシス状態に陥るとその説明責任のしんどさ、煩雑さを痛感する。今後は癒えた被害利用者のフォローを継続しつつ、司法の場で問われるかも知れない加害利用者を側面が見守ることになろう。
こんな混迷の中で、職員間でも今回の事件へのひとりひとりの総括が始まる。日頃の鬱積が露呈する確執を内在させつつ、ガバナンスの強化が必要となる事態である。福祉労働特有の寛容さは当面封印である。時に関係者の様々な思想信条の自由は、犯人探しの危険性を有する。「あの時にこうやっておけばよかったのに・・・」「前々から加害者のAはホーム受け入れるべきではなかったんだ!」「最終的には施設長の責任だから・・・」「物言えば唇寒し・・・だよ」等。噂はネットを通じて拡散して行くかも知れない。そうあってはならないと思いつつ、腹の探り合いは様子見となる。もしかしたら、職場の冷静さ、いや沈黙の要因こそ、関係者間の責任のなすり合い、腹の探り合いのカオスが醸し出す故かも知れないと思いつつ・・・?多少卑屈になり過ぎているかも知れないが・・・?
利用者同士の内輪ゲンカであれば、その場の「ごめんなさい」で済むのだが、傷害事件となると警察が介入し、本人同士の関係から法人責任へと拡大してしまう時系列をはらむ。「予兆があったのでは?」「安全管理義務違反では?」等。当事者の自己選択、自己決定の落とし穴は、一部の反社会的行動特性を持つ当事者であると内心俄かに思うことがあるが、あくまでも本質は「罪を憎んで人を憎まず」と肝に命じる。つまり、赤裸々なカミングアウトこそ「内心の自由」への不当介入となってしまう。例えば「果物ナイフ」の所持。「ヒトを刺そうと思って買った」は犯罪ではない。ヒトを刺してしまえば犯罪となるが、「所持すること」自体、「思うこと」自体は犯罪ではない。しかしながら、職員個々の内心の自由を無碍にしつつ、ガバナンス強化を図らなければならない我が傲慢さの中で、現在進行形の愛の森はピリピリ状況下にある。「こんな常態が継続的にうまく機能するわけはない」と理解しつつ、加害利用者の行く末を案じつつ、迷走の果ての光明を信じつつの模索が続く。