愛の森コラム
2017年06月30日(金)

7月26日を迎える重い忖度

津久井やまゆり園の凄惨な事件から、一年が過ぎ去ろうとしている。いろいろな組織、団体で一周忌の追悼がなされると思うが、いまだ事件の余波は広く、深く続いていると実感する。

下記は我が思いである。亡くなられた、また被害を受けられた皆さんのことを勘案すれば、憲法が謳う憲法21条「表現の自由」の崇高さを肝に命じつつも、自重、自粛ムードになりつつある世相、また我が身の忖度に心しつつ・・・

 

ある集会では、昔懐かしいアジテーション(扇動)もどきのプロパガンダが語られていた。「収容施設」「優生思想」「脱施設」「ピープルファースト」「時代錯誤」等々の言葉が高らかに、時に苦味を込めて交わされた。

そんな中で、津久井やまゆり園の前保護者会長の尾野氏は、「利用者を新しい津久井やまゆり園に戻して下さい。そこから皆さんと今後の障害者の福祉政策を話し合いましょう」との内容の新生津久井やまゆり園復活への持論を熱弁したのだが・・・。

尾野氏は時に笑みを浮かべ毅然としていたが、私の思いは多勢に無勢の雰囲気の中で、尾野氏に加勢する小さな勇気すら失ってしまい、その集会は寡黙のまま後にすることになる。

主催者の何人かは旧知の皆さんである。長いお付き合いの中で、いろいろな教えをいただき、またいろいろお助けをいただいた皆さんである。しかしながら、皆さんの主張する正論は私の浅はかな脳裏では「空理空論」にしか解釈出来ず、直感的に拒否反応をおこす。「入所施設(収容施設と表現していたが)への赤裸々な批判」「意思決定権を錦の御旗にする利用者本位の自己選択、自己決定」「被害者の匿名に執拗にこだわる人権擁護」「脱施設のみがパラダイスと語るその論陣」「青天井の税金投入を思わせる経済観念」等々である。勿論そう感じ取ってしまう、またその場で固まっていた私自身の見識と度胸のなさもあろうと思いつつ・・・。

場を支配する空気というのは、圧倒的な圧力となることを実感した体験であった。その点、尾野氏の見識と度胸は立派と言わざるを得ない。

津久井やまゆり園の家族の方も数名参席していた。まったく内部事情を知らない我が身が多少なりとも理解することが出来たのは、尾野氏とはまったく相違する意見の方がおいでになること、亡くなった利用者のご家族の方の中には「そっとしておいて欲しい」と連絡を拒絶する方がおられるということであった。事件の余波は新聞には掲載されない場面で、様々な悲劇と混乱を再生産しているということかも知れない。そんな中では、組織は箝口令を敷かざるを得ない・・・のかも知れない。個人は忖度をするしかない・・・のかも知れない。一周忌を迎える今、相互に、また複雑化して「腹の探り合い」という自己防衛が求められる・・・のかも知れない。

しかしながら、その整理整頓の落とし所は19名の尊い命を成仏させることである。厚木精華園の園長だった故田代哲郎氏の墓碑には、「人は他者の存在を通してのみ自分の存在を認識する」と刻まれている。どうも生者の唯我独尊が増幅傾向にあるように思えてならない。ここは「他者の存在を通してのみ」のおもいおもいの重い忖度をするしかない・・・のかも知れない。死者への供養は心穏やかに慎み深くありたいものである。

2017/06/30 21:38 | 施設長のコラム