弥生の春は年度がわりの月でもある。愛の森にとって、また私自身にとって「ツキ」があった2015年度だったか、否かの詳細は改めて自省しなければいけないと思いつつ、来たる2016年度はときめきと輝きのある実績を目指したいと思いつつ、但し身の丈も忘れない謙虚さを伴う挑戦としたいと慮るのである。
新年度の大きな目標は、愛の森として、また私個人の身の丈として、劣化しつつある信望を勝ち取りたいと思っている。前者の「信望」の欠落は本年度に大きな事業展開が出来なかったこと。戦略、戦術の見直しは必然と考えている。後者の「信望」の欠落は、施設内の不協和音への調律がうまくいかなかったことである。新たな「信望」回復結実の「小異を残して大同につく」人材育成の「心棒」と「辛抱」が肝要と考える。
世の中の変化は、傍若無人の「イスラム国」の脅迫にも毅然たる対応に終始した安倍政権の下で、着々と日本改造計画が進んで行くと想像する。少子高齢化にして、格差社会にして、超国債発行の借金まみれの下での集団的自衛権の行使、原発の再稼働、特定秘密保護法の拡大解釈が展開し、数の力による憲法改正は必然ということになろうか?私の思考回路にとっては、賛成しかねる由々しき事態の下で我が人生の高齢化も加速する。
障害者福祉はどうなのか?勝手ながら思い巡らせば、多分来たる消費増税10%となった時点で、介護保険統合への道が突然に打ち出され、同レベルの単価減額に陥り、枯渇する職員確保には、すずめの涙程度の恩恵処遇加算が引き続き設定されるのではないかと考える。「生かさず殺さず」ではなく、「活さず無くさず」の障害者福祉政策の中で何とか運営継続をはかるということになろうと考える。一法人一施設という小さな経営形式は、「包括」と「経営効率」という掛声の下で、合併を余儀なくされ段階的に持ちつ持たれつのホールディングスを形成するということになろうか?「信望」の「心棒」はカネ頼みとなり、かかわる福祉従事者は更なる「辛抱」を余儀なくされると想定するのは誇大妄想だろうか?
障害者福祉に求められることは、打たれ強い「心棒」と「辛抱」であると考えるとこんな分析が成り立つ。つまり、福祉従事者ひとりひとりがヒューマンサービスの供給者として自立し、受給者である利用者から如何に「信望」を得るかと捉えれば、ひとつはぶれない福祉観の「心棒」であり、もうひとつは逆境を忍ぶ「辛抱」となろう。反面教師の傍若無人的「心棒」であってはならない。また被害妄想的な「辛抱」であってはならない。
自己を円熟させるためにはたくさんの月日が必要となろうが、その成就には飽くなきまい進あるのみである。障害者福祉は利用者の皆さんの年齢差、性差、障害特性差、障害支援区分差、生活環境差、家庭状況差等によって複雑に絡み合い十人十色、千差万別である。ゆえに凌駕への道は難所続きなのである。新年度は、「転機晴朗願うも波高し」を予感する。「信望」を勝ち取る「心棒」と「辛抱」が試される。