年を重ねる毎に「物事は即実行」という思いが募り、いろいろな小さな体験、発見の小さな旅に出るようになった。そのひとつが落語を「聴き」に行く実践である。お目当ての落語家は、金原亭馬玉さん。愛の森の職員の身内であるというご縁をこれ幸いに落語会のお知らせが届くようになり、都合5回ほどその話芸を堪能させていただいた。
今年は正月気分が萎えた頃、上野鈴本演芸場でトリをとるということで、帰省の帰り道、上野駅から数分の演芸場へ足を向けた。入口には馬玉さんののぼり旗が冷たい夜風に震えるように揺れていた。月曜日の夜席であったためか、50名程の客の入りだったが、入れ替わり舞台に上がる落語家さんやその他の出し物を披露する芸人さんたちはそれぞれに「おカネをとるだけのことはある」とプロの芸達者に感心しつつ、トリの馬玉さんの登場である。出し物は「大岡越前」・・・40分近い人情噺を名調子で語りつくしてくれた。これぞ「芸の深み」と思いつつ、お開きとなった後、玄関口で帰り客ひとりひとりに御礼の頭を下げる馬玉さんの人情味にも「伝統の重み」を感じたのである。
大岡越前の話は、左官の金太郎が3両拾い、落とし主の大工吉五郎に届けるが、吉五郎はいったん落とした以上、自分のものではないと受け取らない。金太郎も自分の金ではないと受け取らない。大賀越前守の名御裁きは1両足して2両ずつ両人に渡し、三方一両損(3者1両ずつ損をする調停)にて解決する。大岡越前の機転と「ゆずりあい」の教訓となる話である。越前守が身銭を切ったのか、税金であてがったのかを詮索するのは野暮な話である。
例えば、横浜の市営地下鉄、ブルーライン、グリーンラインは全席「ゆずりあい」である。ここで一句(頭文字を使って)・・・
ゆめうつつ ずばり支援の 利他と利己 相半ばなり 生き抜く証
「夢」と「現」の日常の中で、利用者の「生き抜く」証明とは何か?支援者の「息抜く」証明とは何か?ということである。「利他」と「利己」のバランスの中での「ゆずりあい」が大切ということかも知れない。
例えば、小田急線栢山駅から徒歩10分程のところに二宮尊徳翁の記念館がある。報徳思想に学べば・・・
至誠・・・うそ、いつわりのない真心のこと
勤労・・・自分や地域の向上のために、自分でできる仕事に励むこと
分度・・・自分が置かれた状況や立場にふさわしい生活をおくること
推譲・・・分度によって生まれた力やお金を自分の将来や社会に譲ること
これも「ゆずりあい」への道しるべということになろうか?孔子の思想が土台になっているとはいえ、古今東西共通の教訓は生き続けているというのである。五月の大空に数個の白い雲がゆずりあいながら浮かんでいる。