ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典氏と奥様の会話をテレビで見る機会を得た。「お互いいい加減な性格なのです」とのトーク。睦まじく会見に臨むご夫婦の様子を拝見しつつ、また拝聴しつつ、これこそ「良い加減」と思ったのである。生命科学に勤しむ人生、それを包み込み、下支えする人生の成果が「オートファジー(自食作用)」の発見につながったということになろうか?
障害者福祉の現場においても様々な場面で「いい加減」と「良い加減」の区分けの判断が交錯し、また客観的な評価の対象となる。
◎事例1(トイレのサンダル)⇒ 愛の森の3階トイレは、床が陶製タイルのため、ゴム製のサンダルに履き替えることがルールである。ここに2つの「いい加減」が見受けられる。ひとつは、そもそもサンダルを「履かない」利用者の存在である。「履かない」のだから、並べられたサンダルは、使用後もお行儀よく並んでいる。ふたつめは、「どう脱いだのか、定位置に戻らず、散らばり、時にひっくり返っている」サンダルである。ルールに則れば使用後は、定位置に並ぶのが「良い加減」であるのだが、「並んでいる・いい加減」と「散らばっている・いい加減」の日々が続いている。「指導、訓練が足りない」とのご指摘と時代性は「これこそ包容力」「支援者が整理整頓すれば済むこと」との対立軸が悩みの種である。たかがトイレのサンダル、されど障害者福祉の底なし沼的難題でもある。日々の「いい加減」と「良い加減」の交錯は、「利用者の自立」と「支援者の使命」、また「利用者の生きがい」と「支援者のやりがい」に微妙な混乱をもたらしている。
◎事例2(ふるまいと佇まい)⇒ 障害者支援施設における職員の「ふるまい」と「佇まい」は、時代性と共に変化している。「エチケット」「ルール」「マナー」と拡大解釈して行くと難題はさらに難解となる。例えば、津久井やまゆり園事件の殺人者は、入れ墨(タトゥー)をしていた。私としては不適切な風俗と思いつつ、パラリンピックのアスリートの中にも入れ墨人間が散見された。文化や習慣の違い、時の流れとは思いつつ、自己選択、自己決定優先の世界標準を感じさせる。「いい加減にしろ」と思いつつ、風俗の変節は昨今の道理なのかも知れない。例えば「会話の輪の真ん中を突っ切る行動」「お客さんの目の前で歯磨きをする行為」等。もしかしたら、注意しても意に介さない、「いい加減」の反逆が起こるかも知れない世代間ギャップを感じ取りつつ・・・。
◎事例3(自食作用)⇒ 例えば利用者への不適切な言葉かけである。「壁に耳あり障子に目あり」と諭しても、なかなか改善しない。支援者個々の生育歴やその後の人生観とは思いつつ、「おもてなし」には程遠い発達段階を模索しているのが愛の森の日々である。大隅先生の「自食作用」に学びつつ、自らの「いい加減」言動を顧みるための隠しカメラ映像の公開、隠し録音の公開を赤裸々にご本人に提供さえ出来れば、「いい加減」は、「良い加減」に生まれ変わるかも知れないと思いつつ・・・。そんな人権侵害的行為など出来もしないと達観しつつ、それでも「良い加減」実現への空想に浸りながら、まずは我が身の「いい加減」さ改善の優先を誓う秋の夜長である。