愛の森コラム
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2014年12月16日(火)

グローバルスタンダードの光と影

解散総選挙とクリスマスのイルミネーションの光とジングルベルの音色に午年の顧みる季節である。「いろんな事があったなあ」と自省しつつ、時の流れは未年に向かう。最近感じるのは、IT、マスメディアの進化により、地球が小さく感じることである。ヒト・モノ・カネが国境を超えて、グローバルに移動する。その情報が、手のひらの中のタブレット端末で受け取れる時代となった。特に気になるのが、「イスラム国」というボーダーレスの奴隷制度復活を掲げる武 装集団の暴発であり、もうひとつは「エボラ出血熱」の予断を許さない拡散である。安易な想定は不遜かも知れないが、このふたつの悪魔が不埒にして偶発的に結合し、全世界に跋扈する事態は、人類滅亡への奈落を感じさせる。いやいや集団的自衛権を行使してでも、どう退治すべきかが問われるグローバルスタンダードのさだめであり、総選挙の意味合いということになろうか?


 「腹が減っては、戦は出来ぬ」とてんぷら定食を注文する。仮にご飯に味噌汁、てんぷら、煮物、酢の物。デザートは、フルーツとしよう。ご飯は、「カルフォルニア産こしひかり」、味噌汁も「カルフォルニア産大豆」が使われ、てんぷらのイカは、遠く「フォークランド産」、ころもは「オー ストラリア産小麦」、煮物の椎茸は「中国産」、酢の物のタコは「モーリタニア産」、フルーツは、「地中海産オレンジ」かも知れない。食膳はグローバルがスターンダートとなっている。つまり、食材の調達は全世界との交易なくしては成り立たない。水際でのチェック態勢がなされているとはいえ、例えば「セアカゴ ケグモ」のような外来危険生物が国内で繁殖を始めている。この夏、代々木公園中心に大騒ぎとなった「デング熱」もその要因は温暖化とグローバル化である。 もはや食い止められないとすれば、「エボラ出血熱」も日本国内に入ってくることは想定内ということになろうか?


 障害者福祉の世界もグローバルスタンダードである。「障害者権利条約」がその最たる光であろう。ノーマライゼーションの理念が条約という形で公式に認められたということである。バンク・ミケルセンの提唱から、50余年後の光明である。しかし、光が射す所には必ず影が生まれる。多分「障害者権利条約」という光にも様々な影が生み出されるだろう。不平等、不具合、不統一、不人気、不明確、不確実、不透明等々・・・。福祉従事者はその「不」 を「富」に替える使命が課されることになるのだろうと想像するが・・・?


 時代の趨勢に賛成するか、否かはひとりひとりの判断と責任に転嫁させつつ、カネと権力のパワーゲームが前進後退、右往左往を繰り返す。願いは「イスラム国」「エボラ出血熱」の不安定因子への対策が例えば新薬の登場等によって改善に向かい、更に更に全人類、つまり「障害者権利条約」に則り全障害者をも包含して平和で優しい時代が続くことである。そんな希望を描きつつ、羊の数を数えながら眠りに就く年の瀬の夜である。

2014/12/16 19:02 | 施設長のコラム

2014年11月01日(土)

心技の真偽を審議する

木曽の御嶽山の突然の爆発で、たくさんの命が失われた。大けがを負った登山者の回復を祈りつつ、60余名の死者の魂には冥福を祈るのみである。自然の美しさは人を至福にする。但し、突然の天変地異は人を奈落の底に突き落とす。ハイリターンゆえのハイリスクの恵みは表裏一体である。心技に円熟した登山家であっても、突然の噴石にはなす術なしということである。直近に地震波が観測されており、事前の策がなぜになされなかったのか・・・と疑問を問う識者もいたが、その真偽は神のみぞ知るということになろうか?要は審議の結果、「すべての活火山は登山禁止」とすれば、事は簡単である。世界文化遺産の富士山も永久に霊山として人の立ち入りを拒むことになる。確かに被害はなくなるが、人間の好奇心や冒険心は止めることは出来ない。

 我が職業とする障害者福祉労働は、「心」「技」「体」「知」「忍」の5文字の好奇と冒険に収斂される。「心優しく、支援技術を学び、体力を維持しつつ、知性を重んじ、かつ試練に忍ぶ」労働ということになる。つまり、「ココロ」と「ワザ」の堅持、円熟こそが大切と考える。

 しかしながら、障害者福祉労働は、いまだ慈善的な低賃金労働に喘いでいる。しかも、少なからずの福祉労働者が、「使命感」という響きの良い表現に身を委ね、滅私奉公も厭わずという雰囲気を醸し出す。「利用者」は「利用者様」に変化し、顧客満足度の市場原理の中で、現場の閉そく感、疲労感、悲壮感は蓄積される。この解釈の真偽の審議は、読んでいただいた方に委ねるとして、福祉労働者の枯渇、焦燥への打開作戦のご披露である。
 

  • ①原則総収入の70%は人件費にまわす。但し将来に向けた内部留保、つまりハードウエアの整備、新事業の自己資金の中長期計画に向けて粛々と蓄積する。
  • ②年功序列賃金制度を改め、節度ある成果主義年俸制度に組み替える。
  • ③キャリア、ノンキャリアの二極化した人事体制とする。但し常勤雇用は促進する。
  • ④時代の制度に答えつつ、法人の経営安定のため収益事業を積極的に取り組む。
  • ⑤新採用、中途採用、人材発掘・ハンティングの部署を強化する。また人材派遣の専門分野を積極的に活用し、新陳代謝をはかる。但し無闇な天下り登用はご法度とする。
  • ⑥以上を司る理事会の機能と質の向上に尽力する。
     

「ココロ」と「ワザ」はどこかに消えてしまったかに見えるが、①から⑥をインクルーシブ(包括)する枠組みが、「ココロ」と「ワザ」である。つまり、障害 者福祉施設を運営、経営するには、「カネ」という魔物を如何に福祉の原点に適って如何にコントロールするかということに尽きる。常に真偽の審議が必要であ り、時代の要請を受け入れつつ、大胆な取捨選択も必要ということである。要は人の道に照らした判断、不採算事業の取捨選択に対する大鉈の可否である。社会 福祉法人に課税の話が聞かれる昨今である。「親方日の丸では生き残れない」と落葉を踏み締めつつ考える霜月の夕暮れである。

スマップの「夜空の向こうに」 にならぬ赤とんぼが乱舞する「夕焼けの向こうに」の光明を期待しつつ・・・。

2014/11/01 11:01 | 施設長のコラム

2014年10月01日(水)

たじたじ総論

かつて「ニュース23」のキャスターが故筑紫哲也氏だったころ、「多事総論」という筑紫氏の重い思いを語る時間があった。遠く見識は及ばないため、「たじたじ」な我が身の「総論」を記すことにする。天高く馬肥ゆる秋の真っ最中である。世相は混濁の度合いを深めているがせめて心の色だけは澄み切った青空でいたいものである。佐高信氏の「不滅のジャーナリスト筑紫哲也の流儀と思想」に学べば、こんな教訓が書かれている。


 正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
 正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがいい
 まさに、我が身への自戒を促す明瞭、明晰な教訓である。時に我が身は残念ながら・・・

 

  1. 相手を威嚇するような大きな声でしゃべりまくる。
  2. 殆ど相手に異論、反論、オブジェクションの機会を与えない。
  3. 有識者、権力者の存在を引き合いに出し、相手との格差(非対称性)を強調する。
  4. あの人、この人、その人を引き合いに出し、「みんな私と同じ考えだ」と多数派を鼓舞する。
  5. 最後に「私の言うとおりにすればうまく行く」と諭し、ささやかに「あなたのいう事もわかるけど・・・」と相手に偽善の情愛を示す。

こんな我が身に誰かしたと自己責任を回避しつつ、「渡る世間は鬼ばかり」と自己弁護は欠かさない。上記の教訓とは真逆の我が体質に反省のみである。

 阿川佐和子氏の「しかられる力」によれば、「借りて来た猫」が叱る極意という。つまり、「しかられる力」は、「しかる」極意があってこそということになる。


   か ⇒ 感情的にならないこと
   り ⇒ 理由を説明すること
   て ⇒ 手短にすること
   き ⇒ キャラ(個性、性格)に配慮すること
   た ⇒ 他人と比較しないこと
   ね ⇒ 根に持たないこと
   こ ⇒ 個別的におこなうこと


 阿川氏は、著書の中で、父親に怒られ続けた人生を語りつつ、いまや解釈拡大する「パワハラ」の時代性を揶揄しつつ、「しかられる」ことから学んだ力を披露している。昔は隣近所に頑固おやじや世話好きおばさんが存在し、町内会の治安とやりすぎ、また子供のやんちゃに眼を光らせていた。いまや「プライバシーの侵害」「個人情報保護」の時代性は、目配り、気配り、心配りは、いらぬ「お節介」となってしまったということになろう。

 ふと障害者福祉も利用者本位の自己選択、自己決定の強調が、支援側の目配り、気配り、心配りの回避要因となり、「支援」と「お節介」の境界線の判断が難しくなりつつあり、良かれと思って続いて来た福祉労働が、利用者本位の潮流の中で転換期を迎えているのかも知れない。我が思いとしては、たじたじの福祉労働が心配の種である。

2014/10/01 11:01 | 施設長のコラム

2014年09月01日(月)

共生には強制的矯正は必要か?

一握りの人間たちの話から始めることにする。言葉が過ぎると不届き千万な解釈改変になる危険性をはらみつつ、自重を肝に命じ考察する。

 まずは、北朝鮮との拉致被害者救済の話である。一握りの権力者が独裁統治する国家の犯罪に対して、平和的友好関係を築き、過去の過ちを精算させようという交渉が続いている。但し、一握りの圧政者に媚へつらう進め方に違和感を抱きつつ、事は拉致被害者の救済にこそ大義が落とし所かも知れない。我が国の姿勢は、概ね了解される手法ということになろう。しかしながら、変わらぬ傍若無人な振舞いに対して、制裁緩和をはからざるを得ない現実には 悔しさが募る。ここは強制的矯正が必要であると考えると・・・。飢えている民、迫害されている民救済の為にも、共生を使命とする先制攻撃が頭に浮かぶが、 軽薄短小な内政干渉であり、平和憲法違反である。妄想は飛躍する。仮に北朝鮮との拉致被害者救済交渉が決裂した場合、その引き換えの経済的恩恵が閉ざされた怒りをテポドン、ノドン発射という暴挙に出た場合はどうだろう。ここは個別的自衛権の力で自衛隊が迎撃する。加えて、アメリカ、韓国という友好国が集団的自衛権の下で、共に戦うという事になろうか?平和憲法の名の下に、悲惨な戦争状態になることは避けたいが・・・。


 そんな仮想現実を憂慮しつつ、一握りの人間の暴挙が大きな事件、不安を引き起こすことがある。例えばストーカーである。ネット社会のストーカーは尾行やいやがらせだけではない。例えば、ITの進化は、過去の露わな姿を全世界に発信させることさえ可能にした(リベンジポルノ)。メール、 ツイッター、ライン等々でも様々な悪辣さで被害者を追い込んで行く。最後は思いを断ち切れない邪念、自暴自棄による殺人行為に及ぶ。共生を乱す一握りの人間たちが被害者を過酷な隠遁生活となるシェルターに追い込む。こんな不条理は強制的矯正しかないと考えると・・・。不埒な輩は別件逮捕その他で厳しく社会から排除すべきと考えるのだが、公権力の出足は鈍い。「事件性がない」「加害者にも人権がある」等々である。同調者を募っての集団的自衛の策も許されない。例えば仇討はご法度である。


 知的障害者福祉の共生もある意味では複雑怪奇である。当事者は日本国の人口構成からすれば一握りである。ゆえに彼らの生活基盤は王道から外れ、その一握りのまた一握りの当事者が入所施設という半ば閉ざされた空間で人生を送っている。プライバシーがなきに等しい、型にはまった集団生活の毎日である。しかしながら、入所施設の中に入ると、多数派は当事者となり、相応の生活水準が保障される。利用者と名を変え、制度上自己選択、自己決定に基づき、例え入所施設で暮らす場合でもご当人が選択、決定した結果ゆえということになる。そう考えると人権とは何か?である。自らが決定した棲家が入所施設 とすれば、「人権は守られている」ということになろう。しかしながら、権利条約が謳う「共生」の中には、入所施設の集団生活は含まれない。あくまでも街の中で普通に暮らすことである。だとすれば、強制的矯正ホーム移動戦略が必要となる。施設に住み続けるのは本人の選択、決定だとしても、それ自体人権侵害に当たるという複雑怪奇な方程式が成立してしまうからである。そんな熱い熱い議論の中で、長い長い残暑が癒えないまま長月に入る。

2014/09/01 14:13 | 施設長のコラム

2014年08月01日(金)

無垢なる暴走

論語の子路第十三の通釈である。「楚の国の、葉(しょう)の地の長官が、孔子に語った。[私の村に、正直者の直射(ちょくきゅう)という者がいる。 ある時、その男の父親が羊を盗んで訴えられたら、馬鹿正直にそれを隠さず証言した]と。それに対して孔子は、[私の村の正直者は、それとは違う。たとえ悪事であっても、父親は子供の為に隠し、子供は父親のために隠す。そうした、人間本来の、自然の情感を偽らないことが、ほんとうの正直というものだ]と言っ た」。これは、史跡足利学校の論語抄による。


 へそ曲がりとしては、納得出来ない。「正直者が馬鹿を見る」論陣を史跡足利学校に尋ねた。即回答が返送された。「この章で孔子が言い たかったことは、親子間の情愛を重要視したようで、親は子のために情を尽し、子は親のために心を尽すことが人間のもっとも基本的な、自然の情であると考えたようです。この親子間の自然の情を偽らないことがほんとうの正直だと考えたのでしょう」との回答をいただいた。刑法105条にも反映し、親子間についての偽証は成り立たないことになっているという。この解説を寛大にして是ととるか、いやいや原理原則に則れば、理解不能ととるか、またその温度差も様々と考えつつ、私自身は、サプライズを感じた孔子の言葉であった。

 知的障害者の世界は、契約の時代が定着し、利用者がお客様として、人権擁護が常識として関わる福祉従事者の使命となった。利用者の一言一踏足にも神経を使う時代になったということかも知れない。軽んじたり、また不具合な言動が発生すれば、かかわる福祉従事者は窮地に追い込まれかねないということである。


 時に利用者からの無垢なる暴走が発生する。事実無根の福祉従事者へのバッシングである。「××職員に叩かれた」「▽▽職員は依怙贔屓 する」「◇◇職員は私の話を聞いてくれない」等々である。しかしながら、事実無根とは職員側の言い分であり、利用者本人にとっては無垢なる訴えということ になろう。職員は利用者支援に従事し賃金をいただく労働者なのだから、言い分は支援を受ける利用者側に有利に働くことになる。但し、それが虚言や妄想等の 暴走を始めると福祉従事者の精神的、肉体的健康状態は劣化する。必然、巡り巡ってサービス受給者である障害当事者に様々な影響が出るということになる。


 孔子が言わんとする情愛は、親子間の宿命的扶助関係であるが、縁あって福祉サービスの供給者と受給者となった者同士が角を突き合わせ る事態は避けるべきであり、孔子流の情愛がカンフル剤にならないかとの思いが募る昨今である。灼熱地獄は、すでに異常気象ではなくなって来た地球温暖化の 時代であるが、せめて福祉サービスの供給者と受給者の関係に温暖化をもたらす情愛を維持、継続したいと願う葉月の思いである。

2014/08/01 14:14 | 施設長のコラム

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