愛の森コラム
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2015年10月01日(木)

同じ日に・・・

 9月18日(金)は、いや翌日未明は、日本の歴史に残る、あるいは禍根を残した一日ということになるだろう。集団的自衛権を認める法案をはじめとする関連の様々な法改正が一括りにされて可決されたということである。昨今の緊迫した世界情勢、また日米友好には致し方ない解釈改憲と見る向きもあろうが、要は国会議員自らが、日本国憲法をないがしろにした、立憲主義への冒涜、また解釈改憲という法的安定性をないがしろにした罪は大きい。但し、国会の前で「憲法を守れ」「9条を守れ」と訴える老若男女(若者に期待しつつ)の叫びの中で、多勢に無勢の結果とあいなった。その後の安倍政権支持率は多少下がった程度で、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」にならぬことを祈るばかりである。

 そんな夜に高校時代の友と、新宿で酒宴を持つ。以前はスバルビルの「互談や」という居酒屋がなじみだったのだが、耐震工事の為閉店となり、小田急エースの「わらびや」に席を移した。あまたある新宿西口の飲食街は、「安保」の歴史的転換の一夜という危機感をまったく感じさせない賑わいであった。友の一人がおもむろに一枚の写真を取り出す。文科大臣、下村博文氏との懇親会の写真であった。下村氏は安倍政権の中枢である。友の感激の説明を聞きつつ、「子供たちを二度と戦場に送るな」という創設当時の日教組のキャツチコピーが思い浮かんだ。麦焼酎「中々」のお湯割りをおかわりしつつ、「安保」とはまったく関係のないたわいない話題の中で酔いは「安保」を忘れさせた。

 今回の多勢に無勢の原因の大本は、民主主義の根幹となる「選挙」への無関心に依拠するように思う。衆議院の場合、小選挙区制にして、低投票率であり、政治家が世襲という家業となってしまったことが主な原因と考える。例えば、選挙民100万人の○○選挙区の場合である。投票率が50%(50万人が棄権)で、A党候補とB党候とC党首候補が立候補したとする。結果は50対40対10となったとする。当選したのはA党候補の得票率50%であるが、投票率が50%ということは、実質選挙民の25%(得票数25万票)しか、支持していないということになる。棄権派の責任は、25%の代議士を誕生させてしまい「選挙民の支持を得た」と高飛車にさせてしまうことである。「棄権」は、最大の「危険」因子なのである。

 法改正により、次回から18歳以上の国民に選挙権が付与された。被成年後見人も一票の重責が課せられる。若者たちには、安倍政権がやらないと明言した「徴兵制」危惧への審判が試される。解釈改憲という手段が多勢に無勢で結果を生み、法的安定性はゆがんでしまった。事と次第によっては、「兵役」が課せられるかも知れない。障害当事者には、戦時中の「ごくつぶし」と蔑まれた世相への回帰の抑止への重責が課せられる。東日本大震災、常総の街を覆い尽くした大水の惨禍の中での耐乏生活を想定して見ることである。戦争は確実に障害者をつくり、障害者を邪魔者扱いにする。

そんな大転換後のひとりひとりが試される神無月の始まりである。但し、ここが出発点という勇気ある指南もある。「あきらめない」ことに尽きる。「中々」をすすりつつ、なかなかうまく行かないご時世ではあるが、若者たちのエネルギーは、なかなか良いものである。

2015/10/01 10:00 | 施設長のコラム

2015年07月31日(金)

地域福祉恐怖症

 朝の忙しなさにNHKの朝のニュースで、「高所平気症」の特集をやっていた。ジャムパンをほおばりつつ、その内容を吟味すれば、「都市部では高層マンションが立ち並び、 必然子育ても例えば地上50メートルで始まるということになる。育児が始まり、成長段階で、子供たちは高さという恐怖、危険が平気になるというのである。転落事故の原因のひとつとなっている」というのである。

 池袋にそびえる「サンシャイン60」の展望室がリニューアルされるというニュースがあったが、かれこれ40年ほど前、元巣鴨プリズン跡地が、サンシャイン60に生まれ変わり、 建設が進む時代に東池袋の安アパートで暮らしていた。完成して多少フィーバーが萎えた頃に、物見遊山で展望室から大東京の一望を眺めたことが懐かしい。いまや、天空に居を構える時代性である。 近い将来、一定のルールが整備され、落ちないドローンが初夏の東京の空を飛び回る時代が来るかも知れない。 「高所恐怖症」の人間たちには、スカイツリーや六本木ヒルズ等の展望室は恐怖を感じるだけの魔の空間であり、多分足を踏み入れることはないが、「高所平気症」は時代が生み出した新兵器症候群なのかも知れない。 そんな感慨に浸ってはいられない。定時の出勤時間に間に合う為、団地の駐車場から、マイカーを走らせる。気がかりは、グループホームのAさんである。

愛の森学園に到着し、担当者に状況を聞く。「汚物にさわってしまうため、不衛生である。他入居者の部屋から物品を持ち出してしまうため、クレームも出ている」との事。結論は即刻退ホーム以外に方策なし。 戻り先はおのずと愛の森学園となる。次に、本人に変わる候補者の選定ということになるのだが、あくまでも利用者本位の自己選択、自己決定が原理原則である。 トレード要員をチョイスするが、本人が拒否、また身元引受人が了解しなければ事は進まない。ひとりひとりの人生がドラスチックに変化するという大事な局面である。原因は「不潔行為」に我慢ならないためであるが・・・ 関係者でディスカッションするが名案は浮かばない、どうも皆不機嫌焦燥状態に落ちて行くような雰囲気に包まれる。診断名があるとすれば、「地域移行恐怖症」に罹患してしまったということになろうか?

 時代性は、障害者権利条約、その他の法整備で、誰もがひとりの人間として街の中で暮らして行く権利が保証される時代となった。しかし、事はそんな簡単な問題ではないのである。 障害特性の中には、「公共の福祉」に反する行動、行為を誘発する特性を有している方もいらっしゃるということである。 隣の家がゴミ屋敷だったら、どうなのか?・・・と不埒な比較はしてはいけないが、明らかに他者に対して迷惑な行動、隣近所への騒音等の迷惑行為に対しての規制はやらざるを得ないのも社会福祉従事者の役割であるということなのである。 地域福祉は決して甘いものではないとあつくあつく思いつつ、我が「地域福祉恐怖症」が癒えて、「地域福祉平気症」となった日には、熱く熱く未来志向の展開を目指したいと考える暑い暑いキラキラ太陽の真夏の日の思いである。

2015/07/31 18:03 | 施設長のコラム

2015年07月01日(水)

集団的な自衛の策の行使へ(大藤園の虐待を考える)

憲法は「その国の権力者が守るものであり、どんな権力も、憲法の規定に従って統治しなければなりません。この原理を立憲主義といっています」(池上彰・超訳日本国憲法・新潮社)とある。

昨今の安倍総理大臣の集団的自衛権の拡大解釈には、如何せん納得出来ない我が思考回路であるが、賛成派の皆さんからすれば北朝鮮、中国の唯我独尊のふるまい、またISの悲惨を飛散させるニュース映像を繰り返し、繰り返し記憶すると、「イケイケどんどん」の過去の猛省によって生まれた平和憲法の崇高さは時代遅れの遺物になってしまったということかも知れない。そんな大きなご時世から身近のご時世の話に移ることにする。山口県下関市の知的障害者施設「大藤園」の利用者虐待事件である。

極悪度を火山噴火レベル的な5段階で例えれば・・・
レベル1からレベル5とすれば1「潜在」、2「予兆」、3「心配」、4「危険」、5「虐待」となろうか?

6月11日の朝日新聞の記事の見出しは、「障害者への虐待、施設で常態化か」、同日の毎日新聞は、「複数の障害者に暴行か」。読売新聞は、「市、「暴行映像」提出断られる。調査で把握できず」と切り口が違う。

要は虐待シーンがテレビに映し出され、ユーチューブで広がり、その悪質さが全国津々浦々に広まったということである。映像は衝撃的であった。

先のレベルに則れば・・・「危険」「虐待」という現場の中で内部告発者は悩んだ末に隠しカメラを仕掛けたということであろう。しかし、なぜにそこまで悪質化したのであろうか?「潜在」「予兆」「心配」と進む中で、自浄作用が働かなかったのだろうか?監督する行政、法人の理事長、当該園の施設長の責任は重大と言わざるを得ない。

どうも唯我独尊の北朝鮮のような体質に染まりやすいのが社会福祉法人の特殊性であり、最大の問題性ということかも知れない。法人立ち上げの崇高な志、また個人が法人を動かすという体質そのものが、時間とともに腐敗し、構造的な欠陥を露呈したということかも知れない。

ここは集団的な自衛の策の行使が必要と考える。武力ではなく、尽力をもってする多種多様な障害者福祉への人的投入であり、ネットワークの構築である。例えば、目される社会福祉法人改革であり、第三者評価または検証による利用者本位の自己選択、自己決定に根差した人権擁護体系の構築である。唯我独尊になりがちな法人構造、閉鎖的になりがちな施設構造への転ばぬ先の杖は、集団的な自衛の策の実行あるのみである。「他山の石」の教訓に従い、但しアラさがしにならぬよう気配りしつつ、切磋琢磨の日進月歩を広範に展開するということになろう。時代性を加味した構造改革は急務である。

2015/07/01 09:41 | 施設長のコラム

2015年05月29日(金)

雲間の青空を仰ぎつつ・・・

時は流れて、2045年度を迎えた愛の森である。どうも様子が違う。10階建てのビルに生まれ変わった愛の森は森の里の一角に凛とそびえたっていた。利用者は5階から10階に各自の経済力にあわせて居住スペースがあてがわれ、上階の9階、10階は豪華絢爛なハイグレードサービスのスペースとなっていた。1階、2階は通所利用者の活動スペース、3階に短期入所と統括マネジメントルーム、4階は入所利用者の活動スペースである。5階は各種の浴場がちりばめられ、複数の食堂を中心に癒しスペースとなっていた。定員は40名のままであったが、自由契約のお金持ち利用者(外国人も含む)は9階、10階に5名ずつ入居され、差別化されたハイクオリティの日常を楽しんでいた。1、2階の通所者は50名をはるかに超えていた。社福愛の森は消滅し、株式会社〇〇グループ愛の森に名称替えをしていた。利用者の多くは高齢となり、その多くが車椅子に乗りながら、各階のスペースで各自の時間を過ごしていた。森の里に咲き誇る色とりどりの紫陽花を階下に見つめながらのひと時である。

各階には、多国籍の支援者や各種のロボットが忙しなく動き回っていた。空中にはドローンが風を切って室内、室外を飛び回り、入居者の見守りや雑務をこなしている。意思決定の責任者と執行者はマネジメントに明け暮れ、その配下に支援全般、経営全般を司る少数の管理職、実務は人工知能に託されていた。支援、傾聴、介護は多国籍の人間たちが交替で携わり、利用者への食事、入浴、トイレ等の介助と雑務はロボット(アンドロイド)が担っていた。雲間の青空の中、ドローンが県庁へ書類を届けに出て行った。無人の送迎車が通所利用者の送りに待機を始めた。御承知の通りのシナリオで、ここで夢は醒めてしまい、2015年の愛の森に戻るわけだが・・・

最近のITの目覚ましい進化によって、世の中の変化はめまぐるしい。スマホの機能は日進月歩であり、リニアモーターカー、ドローン、ロボット、人工知能、遺伝子操作等の急速な革新を報道で知るにつけ、障害者福祉においても夢物語と思っていた構造改革が徐々に起こるということかも知れない。勿論費用対効果のリスクはあろうが、例えば、声帯を摘出した、つんく氏のハスギーボイスをもう一度聞ける日が不可能ではないように思う。言語明瞭意味不明瞭である利用者の発言を人工知能が通訳してくれるかも知れない。パワハラ、セクハラ等の労働問題も人工頭脳が調停してくれるかも知れない。但し、こうしたテクノロジーが軍事オタクの研究、つまり人殺しの武器開発から来ていることも忘れてはならない。逆もまた真なりである。平和目的で開発された技術が軍事に転用される場合も往々にして起こるということである。様変わり時代性からの障害者福祉への恩恵を願いつつ、はたしてテクノロジーの進化が本当に人類を幸せにするのか、否か・・・雲間の青空を仰ぎつつの思いである。

2015/05/29 09:42 | 施設長のコラム

2015年04月30日(木)

タブー増殖への杞憂

薫風の季節に「タブー」を考える。角川必携国語辞典によれば、「ある共同体の中で、したり言ったりしてはいけないとされていること。禁忌。また一般に禁句」とある。世の中様々多種多様、千差万別を是としつつ、選択、決定の幅が広がれば広がるほど「言いづらい事」も増殖気味に存在する。

方や思想信条の自由、表現の自由は日本国憲法によって保証されている。・・・とはいえ、共同体の中では「和をもって尊しとなす」は原理原則である。人類共存への英知は「エチケット」「マナー」「ルール」を守るということになろうか?フランスの風刺画家がイスラムのムハンマドを挑発した作画が原因で報復を受けた事件は記憶に新しいが、果たして「表現の自由」は「他宗教の冒涜」まで認められることなのだろうか?いやいや「表現の自由」に「タブー」は存在しないのだろうか?

我が日本にも「タブー」、または「タブー化」しつつある事柄が存在するように思う。戦後70年にあたり、今上天皇はパラオに慰霊の旅をされた。あまたの人間たちが赤紙一枚で戦地に向かい、命を落とした。天皇の鎮魂の思いに深い尊崇の念を覚える。しかしながら、皇室と戦争の歴史を学ぶことはない。北朝鮮問題も今や多事争論とはいかない。沖縄の米軍基地、憲法9条、原発、遺伝子操作の問題等もなぜかトーンダウン気味である。日本国憲法に認められた「思想信条」「表現」の自由の行使こそが大切ということは皆が共有しているはずなのだが、行動に移せない「タブー」とは何なのだろうか?

障害福祉の世界は、ある意味では「タブー」の増殖にデリケイトな課題が山のように存在する。今や「めくら判」「片手落ち」「つんぼ桟敷」等の微妙な解釈が成立する表現はご法度となった。「バカ」「あほ」「ボケ」「与太郎」も「人権侵害」であり、ご法度である。古典落語に登場する憎めない春爛漫のキャラは障害福祉の世界では手厳しく断罪されかねない事態、いや時代となったということである。タブーとなったことは世界標準であり、基本的人権の尊重という憲法11条の偉大さを実感する。障害者権利条約の時代が喫緊に迫り、「タブー」の増殖は今後も拡大すると予測される。

神奈川県知的障害団体連合会作成の「あおぞらプラン」のあおぞら宣言第1条は、「障害者としてではなく一人の人間としてみてほしい」と宣言している。お説の通りであり、非のうちどころのない宣言文であるが、世間はあまり乗り気ではないように感じるのはいつもの私の僻みだろうか?

確かに「バカ」「あほ」「ボケ」「与太郎」の時代からは確実に卒業した。直接的な差別対応は格段に減少したと思われる。〇〇さんと当事者に話しかける福祉従事者が一般化した。○○様と呼んで下さる福祉施設も多くなって来た。しかし、新たな「タブー」が増殖し始めているのではないだろうか?無味乾燥な「形式(マニュアル)」という「タブー」跋扈への杞憂である。福祉の現場は個性と個性のぶつかり合いである。日々の利用者の皆さんとの喜怒哀楽の中で培われた真剣さが「人権擁護」につながるということである。濁ってはならない。「じんけん」侵害の濁点をとると「しんけん」さが浮き出て来るのである。

2015/04/30 18:10 | 施設長のコラム

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