愛の森コラム
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2017年08月01日(火)

忘れてはならない事

加齢化と不摂生の余波で、7月のはじめに一週間程の入院を体験した。

20年ほど前、長期の入院を体験したことも有り、「たいしたことはない」と甘い読みをしていたが、いざ入院となるといろいろな悲喜交々の体験をさせていただき、日頃の利用者への我が関わりの傲慢さを痛切に自戒することになる。

つまり、権力と権威に支配されている患者側に立つと、「患者様」との定型化された顧客満足度の関わりをいただきつつも、腕にネームバンドをとりつけられたモルモット状態に置かれる時と日々が流れたということである。

細かい気づきは我が心の中にしまい込みつつ、さてこれからの人生、残された福祉の道のラスト行程にこの経験値をどう活かすかにかかっているということになろう。

 

入院中は、オペの前後の忙しなさ以外は、暇をもてあそぶ時間が流れた。

持ち込んだCDを聴きつつ、また雑誌や新聞に目を送りつつ、しかしながら、実際は備え付けのテレビの音声を子守唄代わりにして転寝する時間が大半を占めた。最近、「すぐに忘れてしまう」ことにほとほと呆れているのだが、入院中に目を通した情報の中身もいまだ半月前のことではあるが、かなりの部分を忘れていることにまたしても呆れる今現在である。

その中で、インパクトがあったのは三木清氏の「人生論ノート」であり、「100分de名著」(NHK・岸見一郎)で学ばせていただいた。三木氏は、戦前、戦中をありのままに表現し、また耐え忍び、戦後獄死する稀有な人格と根性を持ち合わせた哲学者である。

ベッドの上に身を置く以上、視覚が本に集中する以外は、聴覚の反応は、多床室の他患者たちの話し声や時々巡回して来る看護師の皆さんの優しい声掛けくらいである。壁や天井やカーテンはいかにも病院ならではの模様と形態の空間が視界の大半である。おのずと孤独感にさいなまれる。三木氏は、こんな分析をしている。「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである」。解説する岸見氏によれば、「人が「自分は孤独だ」と語る時、それが周囲に認められたい、注目されたいという社会化された気持ちからくるものであれば、それは「寂しい」という孤独感です。しかし、私は一人であるという自覚に基づいた意識であれば、それはむしろ知性に属する。そこに顕れるのは寂しさより勇気、あるいは覚悟です」というのだが・・・。ふと亡くなった小林麻央さんの闘病映像が脳裏をよぎる。軽率な感想を述べることは出来ないが、麻央さんの勇姿が思い浮かんだのである。

退院して今覚悟することは、「忘れてはならないことがある」ということかも知れない。命は有限であるという現実は、病院内では悲喜交々である。生ある者は、必ず訪れるXデイを迎える前に、やるべきことは一所懸命取り組むしかないということになろう。津久井やまゆり園の諸々の事情で名前を明かせない19名の命が一瞬の蛮行によって最後の日を迎えた悲劇も蘇る。「命あっての物種」を再認識する。そんな単純明快な独り言を心に誓う今現在である。

 

季節はいつのまにか猛暑となった。71年目の戦後を迎える。共謀罪という蛮行の中で再度平和の祈りを念じるのである。愛の森はといえば重い宿題を抱え、ピンチの日々にあるが、命の尊さを繰り返し語るべき「忘れてはならない」季節に入る。

2017/08/01 08:42 | 施設長のコラム

2017年06月30日(金)

7月26日を迎える重い忖度

津久井やまゆり園の凄惨な事件から、一年が過ぎ去ろうとしている。いろいろな組織、団体で一周忌の追悼がなされると思うが、いまだ事件の余波は広く、深く続いていると実感する。

下記は我が思いである。亡くなられた、また被害を受けられた皆さんのことを勘案すれば、憲法が謳う憲法21条「表現の自由」の崇高さを肝に命じつつも、自重、自粛ムードになりつつある世相、また我が身の忖度に心しつつ・・・

 

ある集会では、昔懐かしいアジテーション(扇動)もどきのプロパガンダが語られていた。「収容施設」「優生思想」「脱施設」「ピープルファースト」「時代錯誤」等々の言葉が高らかに、時に苦味を込めて交わされた。

そんな中で、津久井やまゆり園の前保護者会長の尾野氏は、「利用者を新しい津久井やまゆり園に戻して下さい。そこから皆さんと今後の障害者の福祉政策を話し合いましょう」との内容の新生津久井やまゆり園復活への持論を熱弁したのだが・・・。

尾野氏は時に笑みを浮かべ毅然としていたが、私の思いは多勢に無勢の雰囲気の中で、尾野氏に加勢する小さな勇気すら失ってしまい、その集会は寡黙のまま後にすることになる。

主催者の何人かは旧知の皆さんである。長いお付き合いの中で、いろいろな教えをいただき、またいろいろお助けをいただいた皆さんである。しかしながら、皆さんの主張する正論は私の浅はかな脳裏では「空理空論」にしか解釈出来ず、直感的に拒否反応をおこす。「入所施設(収容施設と表現していたが)への赤裸々な批判」「意思決定権を錦の御旗にする利用者本位の自己選択、自己決定」「被害者の匿名に執拗にこだわる人権擁護」「脱施設のみがパラダイスと語るその論陣」「青天井の税金投入を思わせる経済観念」等々である。勿論そう感じ取ってしまう、またその場で固まっていた私自身の見識と度胸のなさもあろうと思いつつ・・・。

場を支配する空気というのは、圧倒的な圧力となることを実感した体験であった。その点、尾野氏の見識と度胸は立派と言わざるを得ない。

津久井やまゆり園の家族の方も数名参席していた。まったく内部事情を知らない我が身が多少なりとも理解することが出来たのは、尾野氏とはまったく相違する意見の方がおいでになること、亡くなった利用者のご家族の方の中には「そっとしておいて欲しい」と連絡を拒絶する方がおられるということであった。事件の余波は新聞には掲載されない場面で、様々な悲劇と混乱を再生産しているということかも知れない。そんな中では、組織は箝口令を敷かざるを得ない・・・のかも知れない。個人は忖度をするしかない・・・のかも知れない。一周忌を迎える今、相互に、また複雑化して「腹の探り合い」という自己防衛が求められる・・・のかも知れない。

しかしながら、その整理整頓の落とし所は19名の尊い命を成仏させることである。厚木精華園の園長だった故田代哲郎氏の墓碑には、「人は他者の存在を通してのみ自分の存在を認識する」と刻まれている。どうも生者の唯我独尊が増幅傾向にあるように思えてならない。ここは「他者の存在を通してのみ」のおもいおもいの重い忖度をするしかない・・・のかも知れない。死者への供養は心穏やかに慎み深くありたいものである。

2017/06/30 21:38 | 施設長のコラム

2017年06月01日(木)

日本国憲法から問いかけられている「昨今」

日本国憲法99条には、「天皇又摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と書かれている。

憲法21条には、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とある。

憲法学者の識見のご判断ということになろうが、昨今の安倍総理の「読売新聞を熟読願いたい」という、2020年の改憲施行への意気込みは、果たして99条違反なのか?はたまた21条の許容範囲なのか、実に不可解と思う昨今である。但し、安倍一強体制の下では、

99条は抑え込まれ気味になった感は否めない。

 

例えば、24条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とある。

ここに矛盾がおこる。性的マイノリティのLGBTの皆さん同志の婚姻が憲法違反になってしまうということになる。渋谷区や世田谷区等では特例を設けているようだが、当事者の皆さんにとっては改憲が喫緊の課題となろう。どうも憲法9条改正(あるいは改悪)を目指す安倍総理は、公明党や一部の民進党の皆さんの加憲を利用して、自衛隊を憲法に位置付け、また日本維新の党が最重要課題としている「教育費無償化」を利用して、国民の下心をくすぐり、一世風靡しているポピリズムをツールとして利用し、自民党結党以来の懸案であった9条改正(改悪?)を成し遂げようとしていると思えてならない。衆参国会議員の2/3以上の可決、その後の国民投票での1/2以上の賛成により成就させるということである。まさに99条の「この憲法を尊重し擁護する義務を負うべき」国務大臣、国会議員の皆さんによって改憲がなされようとしているのである。

確かに、解釈改憲に限界が出て来た9条のダブルスタンダード(自衛隊は軍隊のようで、軍隊ではない)、昨今の北朝鮮の不届き千万な挑発に対抗する最大限の軍事力は必要であり、日米安保条約の下で、アメリカの核の傘で守られているという現実は否定できないということになろう。

北朝鮮が暴発し、ミサイルが本当に飛んできたら大変な事になる。不吉な想定をすれば、安倍総理の一途さは、我が身にも染み入るということになるのだが・・・  

 

そんな誘惑にかられる昨今であるが、愛の森という障害者支援施設に限定すれば憲法改正(改悪?)にしろ、北朝鮮の動向にしろ、どこ吹く風の平和が続いている。多少の人間同士の覇権争いは見え隠れするが、それを除けばいたって穏やかな、もしかしたら平和ボケのぬるま湯常態の中にある。たまに処遇改善を求める職員の声は漏れ聞こえて来るが、暴動が起こることはないし、鎮圧する必要もない。そんな平和な日々は、日本国憲法が誕生し、その後70年間の平和の重みの恩恵ということになろう。

障害者福祉は時流の中で多様な賛否両論を描きつつ今日に至った結果と規定しつつ、その評価の是非は別にして、平和が続いたがゆえの権利獲得であったことには間違いない。「人間は人生から問いかけられている」というフランクル(「夜と霧」の著者)の教訓に従えば、「日本国憲法は人間に何を求めている」のであろうか?改憲へ進む前に熟慮すべきは「憲法から問いかけられている」国民ひとりひとりの「思い込み」ではない「思い」である。宿題は重い。昨今党内の岸田氏、石破氏等の慎重論に多少の光明を感じ取りつつ、細心の吟味が必要なのである。

2017/06/01 08:38 | 施設長のコラム

2017年05月01日(月)

ゆずりあい

 年を重ねる毎に「物事は即実行」という思いが募り、いろいろな小さな体験、発見の小さな旅に出るようになった。そのひとつが落語を「聴き」に行く実践である。お目当ての落語家は、金原亭馬玉さん。愛の森の職員の身内であるというご縁をこれ幸いに落語会のお知らせが届くようになり、都合5回ほどその話芸を堪能させていただいた。

 今年は正月気分が萎えた頃、上野鈴本演芸場でトリをとるということで、帰省の帰り道、上野駅から数分の演芸場へ足を向けた。入口には馬玉さんののぼり旗が冷たい夜風に震えるように揺れていた。月曜日の夜席であったためか、50名程の客の入りだったが、入れ替わり舞台に上がる落語家さんやその他の出し物を披露する芸人さんたちはそれぞれに「おカネをとるだけのことはある」とプロの芸達者に感心しつつ、トリの馬玉さんの登場である。出し物は「大岡越前」・・・40分近い人情噺を名調子で語りつくしてくれた。これぞ「芸の深み」と思いつつ、お開きとなった後、玄関口で帰り客ひとりひとりに御礼の頭を下げる馬玉さんの人情味にも「伝統の重み」を感じたのである。

 大岡越前の話は、左官の金太郎が3両拾い、落とし主の大工吉五郎に届けるが、吉五郎はいったん落とした以上、自分のものではないと受け取らない。金太郎も自分の金ではないと受け取らない。大賀越前守の名御裁きは1両足して2両ずつ両人に渡し、三方一両損(3者1両ずつ損をする調停)にて解決する。大岡越前の機転と「ゆずりあい」の教訓となる話である。越前守が身銭を切ったのか、税金であてがったのかを詮索するのは野暮な話である。

 例えば、横浜の市営地下鉄、ブルーライン、グリーンラインは全席「ゆずりあい」である。ここで一句(頭文字を使って)・・・

 ゆめうつつ ずばり支援の 利他と利己 相半ばなり 生き抜く証

「夢」と「現」の日常の中で、利用者の「生き抜く」証明とは何か?支援者の「息抜く」証明とは何か?ということである。「利他」と「利己」のバランスの中での「ゆずりあい」が大切ということかも知れない。

 例えば、小田急線栢山駅から徒歩10分程のところに二宮尊徳翁の記念館がある。報徳思想に学べば・・・

 至誠・・・うそ、いつわりのない真心のこと

 勤労・・・自分や地域の向上のために、自分でできる仕事に励むこと

 分度・・・自分が置かれた状況や立場にふさわしい生活をおくること

 推譲・・・分度によって生まれた力やお金を自分の将来や社会に譲ること

 これも「ゆずりあい」への道しるべということになろうか?孔子の思想が土台になっているとはいえ、古今東西共通の教訓は生き続けているというのである。五月の大空に数個の白い雲がゆずりあいながら浮かんでいる。

2017/05/01 09:00 | 施設長のコラム

2017年03月31日(金)

大黒柱の卒業と育成

 新年度を迎え、愛の森は世代交代の船出を迎える。加齢体になりつつある我が身はもう少し踏ん張らせていただくことになるのだが、愛の森の大黒柱であったO氏が卒業した中での不透明なスタートを切るということである。

 愛の森創設時から数年がたった頃、当時の若者だった利用者の皆さん(今や平均年齢45歳程)と縁結びをしたのがO氏であった。私はその後のご縁でお付き合い、いやお役目を共にさせていただいたのだが、まさに愛の森の「芯」のような存在で、愛の森の直接的運営を支えてくれた大黒柱であった。

 そんなO氏がある研修会で「仕事は80%しか満足していない。120%満足させるのが我が生き方、休日のボランテイア活動はそのため・・・」と我が解釈の持論を展開してくれたが、日々の利用者支援、その他諸々の業務に満足することのない飽くなき福祉道追求に脱帽した。昔気質の福祉職員の原点を見た思いがする。そんなワークライフバランスとは反比例する仕事観が大黒柱たる象徴ということかも知れない。

 極端な事例かも知れないが「電通」の労働者搾取の話題に従えば、大黒柱の存在自体が今や風前の灯になりつつあるのかも知れない。労働基準法遵守こそが昨今のトレンドである。しかしながら、障害者福祉の現場は多分昔気質の人間が生き残り続けるであろうと私は想像する。それは法律や制度の高い目標値と日々実践する現場職員の労働環境疲弊のミスマッチが解消困難ゆえである。このミスマッチを縫合するのが、管理職、または名ばかり管理職の滅私奉公的使命感の責務と人情ということになる。廉価な管理職手当の中で重い責任と長い拘束時間こそが崇高なプライドに繋がるという偏屈な労働観でもあるのだが・・・。

 愛の森に照らしても利用者の加齢化、身元引受人の高齢化に対する職員の量と質の衰退、枯渇というアンバランスは深刻さを増している。加えて、昨今国が進める「働き方改革」の目標値(例えば時短)が、障害者福祉労働の現場の実態とは大きくかけ離れているということである。要は慢性支援者欠員状態の組織体制の労働環境下で、利用者への「満足度を上げよ」「地域移行せよ」「生活の質を上げよ」と囁くお役人の皆様のお達しには、自ずと矛盾が生じてしまうということになる。「体罰」「虐待」「放置」に陥らないためにも、サービス「需要枠」と「受容枠」の制御が必要ということになる。あえて言えば財源的に可能な「許容枠」が必要なのである。そんな不具合状況が生んだ救世主が、O氏のような大黒柱の存在ということになろう。

 コンプライアンス(法令遵守)のご時世では、旧態依然たる体質こそが大黒柱の存在と思いつつ、タテマエ「ワークライフバランス」堅持、ホンネ「パブリック・サーバント(税金で食べる召使い)」残存という人情を捨てきれないのが福祉労働観かも知れない。新年度も引き続き「ホンネ」と「タテマエ」のコラボレーションが始まる。時に大きな難題が発生したら・・・そんな時に備えて、O氏の後継となる新たな「芯」探しを始める春の霞のような不透明な心境にある我が心構えの吐露である。

2017/03/31 18:00 | 施設長のコラム

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