愛の森コラム
[先頭]  <<    6   7   [8]   9   10   >>   [最後]
2016年01月01日(金)

信念明けましておめでとうございます。

信念明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。          

 平成28年元旦

                社会福祉法人愛の森

                職員一同、利用者一同

 

申年は、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」にならぬよう、誠心誠意前に進みたいと思います。「猿」を「えん」と読み、思いを認めます。

 

支援とは 遠路の先の   円熟なり

演技から 深淵探しの   遠心力

楽園は  ご縁に始まる  延長線

遠慮せず 遅延改善    円滑に

厭世に  ならぬは気炎は 敷衍なり

 

良いご縁に恵まれますように・・・

2016/01/01 09:00 | 施設長のコラム

2015年12月01日(火)

年の瀬に思う

 本年も最終月となり、幸多い年の瀬としたいところだが、パリのテロの惨禍を映像で繰り返し繰り返し見ていると、渡る世間には鬼門が待っていると言い知れぬ不安感が苛まれる。殉教の自爆テロへの防備は、先制攻撃をして敵を殲滅させるか、逆に強固な要塞をつくって敵の侵入を完全に断つか・・・ということになろう。多分両方不可能ということになる。本人が自爆することが正義とマインドコントロールされている以上、こちら側の筋論は無意味である。背景にある民族間の宗教観、貧困の起因である経済格差、インターネットの拡大、石油の利権、十字軍の怨念、過激思想の流布等を抑制させない限り、カオス(混沌)状態は深刻さを増すばかりと想像する。

 知的障害者の世界にもそんな構図があるように思う。利用者本人が理解できない類の自己選択、自己決定を利用者本位に委ねている現状である(例えば、選挙権やマイナンバー等)。「理解できない」は「利用者本位」とは真逆である。「解らない事を決めて下さい」は土台矛盾である。これは意地悪な見方をすれば、お役人や御用学者の皆さんが仕掛けたある種のテロ行為であろう。社会福祉事業者、そこで働く労働者に使命感という美名を与え、「責任」「リスク」を負わせたということである。ゆえに現場は、福祉制度の様々な改変の中で、カオス状態に陥り、一部身元引受人の外部告発と一部労働者の内部告発というテロ行為の恐怖に怯えるという日常になりつつある。いつもいつも他者の目を気にしながら業務にあたる福祉事業者、そこで働く労働者の姿である。要は「理解できない」利用者本位の自己選択、自己決定の背景には、巧妙なからくり(公的責任回避?)が秘められていると不徳の私は解釈している。

 そんな被害妄想的な私を含め職員一同にとあるネットワーク会議からチェックリストが届いた。インパクトのある質問項目は下記である。
・利用者に対して、殴る、ける、その他けがをさせるような行為をおこなったことがあ る。
・利用者に対して、身体拘束や長時間正座・直立等の肉体的苦痛を与えたことがある。
・利用者に対して、わいせつな発言や行為をしたことがある。等々。
「よくある」「時々ある」「ない」の三択で答えよとの事。時々新聞紙上で福祉施設の体たらくが報道されている現実からすれば、作成した方々は善意からのリストづくりだったと想定する。しかし、現場の辛酸を、身を持って体験し、緩和と融和の道を模索しているさ中の私にとってはまさにテロ攻撃を受けた心境にある。「これはないでしょう」というのがホンネである。被害妄想の上乗せかも知れないが、「現場に来て、現実を見て下さい」「現場をもっと信じて下さい」「不祥事が起こる背景にメスを入れて下さい」「福祉予算を上げ、職員の処遇改善に努めて下さい」という思いである。

 未年は「去る」。来たる申年は、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」ではなく、社会福祉従事者一同が「見て」「聞いて」毅然と「言う」志をもって様々な不誠実なテロ行為に抗して欲しいと願う。そんな年の瀬の思いである。

2015/12/01 09:00 | 施設長のコラム

2015年10月30日(金)

無意識、及び間接的心理作戦の妙

地球温暖化が取りざたされて久しいが、霜月を迎えると山々が錦に染まるのは変わらずの自然の姿である。そんな晩秋のひととき実習生とかわした会話のあらましである。

 「Aさんの髪を引っ張る行為や唾を吐きかけるのはなぜなのでしょうか?」
 「多分自分の存在感誇示の表れと思います」
 「言葉が出ないためなのでしょうか?」
 「それは大きいと思います。但し相手からすれば迷惑行為です」
 「迷惑行為をなくさせるためにはどうしたら良いでしょうか?」
 「実に難しい問題です。本人が迷惑を相手にかけていると認識すれば、「いけない」と反省し、やめるかも知れませんが、認識がない場合は遊び化してしまいます」
「なくならないということでしょうか?」
「かつては目には目をのやり方で、その行為の不快さを同じ行為を仕返しすることで本人に辛さを与え、矯正させる手段も行われていました。しかし 概して効果なく、体罰、虐待へとエスカレートしたため、今はご法度です」
「どうすれば良いのでしょうか?」
「理想論としては、環境を変え、他者の刺激をなくす空間を用意することです。しかし、現実の障害者福祉の現場では難題です。支援員が成長し、 利用者の行動特性への目配り、気配り、心配りに努めるしかありません。但し一定の支援を超える問題行動については、施錠や安定剤服薬が必要と考えます」

 以上の会話の中身の是非は読んでいただく方の認識に委ねるとして、ここに支援員間の認識の誤差が出た場合は厄介である。 強硬論と懐柔論のぶつかり合いは温度差はあるもののつきもの・・・。 つまり、利用者の行動特性は、支援員間の心情特性を露わにさせ、時に人間関係に衝突を呼ぶという無意識的な心理作戦の妙が発生するのである。 それでは職員間のこんな場合はどうだろう。何事にも「だんまり」を通す職員がいたとする。本人に注意しても反応、反省なしである。 恙なくルーチンワークをこなし、利用者にはそれなりに親切で、大きな不具合はない。こんなケースにも強硬派と懐柔派の齟齬が発生する。 「組織人である以上、上席者の指摘はルールであり、より強い注意を喚起すべきである」と強硬派は主張する。 懐柔派は「そもそも他者に迷惑をかけているわけではなく、ルーチンワークをこなしているのだから、現状維持を容認すべきである」と主張する。 当のご本人は蚊帳の外で、「虫の羽音を聞きながら、無視を決め込む」という間接的心理作戦の妙に浸っている。 いやはや、障害者福祉の人材育成の難しさは深まりゆく秋の夜長のように、「パワハラ」という危険因子を抱えつつ、深く深く重く重くのしかかる昨今の様相なのである。

2015/10/30 09:00 | 施設長のコラム

2015年10月01日(木)

同じ日に・・・

 9月18日(金)は、いや翌日未明は、日本の歴史に残る、あるいは禍根を残した一日ということになるだろう。集団的自衛権を認める法案をはじめとする関連の様々な法改正が一括りにされて可決されたということである。昨今の緊迫した世界情勢、また日米友好には致し方ない解釈改憲と見る向きもあろうが、要は国会議員自らが、日本国憲法をないがしろにした、立憲主義への冒涜、また解釈改憲という法的安定性をないがしろにした罪は大きい。但し、国会の前で「憲法を守れ」「9条を守れ」と訴える老若男女(若者に期待しつつ)の叫びの中で、多勢に無勢の結果とあいなった。その後の安倍政権支持率は多少下がった程度で、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」にならぬことを祈るばかりである。

 そんな夜に高校時代の友と、新宿で酒宴を持つ。以前はスバルビルの「互談や」という居酒屋がなじみだったのだが、耐震工事の為閉店となり、小田急エースの「わらびや」に席を移した。あまたある新宿西口の飲食街は、「安保」の歴史的転換の一夜という危機感をまったく感じさせない賑わいであった。友の一人がおもむろに一枚の写真を取り出す。文科大臣、下村博文氏との懇親会の写真であった。下村氏は安倍政権の中枢である。友の感激の説明を聞きつつ、「子供たちを二度と戦場に送るな」という創設当時の日教組のキャツチコピーが思い浮かんだ。麦焼酎「中々」のお湯割りをおかわりしつつ、「安保」とはまったく関係のないたわいない話題の中で酔いは「安保」を忘れさせた。

 今回の多勢に無勢の原因の大本は、民主主義の根幹となる「選挙」への無関心に依拠するように思う。衆議院の場合、小選挙区制にして、低投票率であり、政治家が世襲という家業となってしまったことが主な原因と考える。例えば、選挙民100万人の○○選挙区の場合である。投票率が50%(50万人が棄権)で、A党候補とB党候とC党首候補が立候補したとする。結果は50対40対10となったとする。当選したのはA党候補の得票率50%であるが、投票率が50%ということは、実質選挙民の25%(得票数25万票)しか、支持していないということになる。棄権派の責任は、25%の代議士を誕生させてしまい「選挙民の支持を得た」と高飛車にさせてしまうことである。「棄権」は、最大の「危険」因子なのである。

 法改正により、次回から18歳以上の国民に選挙権が付与された。被成年後見人も一票の重責が課せられる。若者たちには、安倍政権がやらないと明言した「徴兵制」危惧への審判が試される。解釈改憲という手段が多勢に無勢で結果を生み、法的安定性はゆがんでしまった。事と次第によっては、「兵役」が課せられるかも知れない。障害当事者には、戦時中の「ごくつぶし」と蔑まれた世相への回帰の抑止への重責が課せられる。東日本大震災、常総の街を覆い尽くした大水の惨禍の中での耐乏生活を想定して見ることである。戦争は確実に障害者をつくり、障害者を邪魔者扱いにする。

そんな大転換後のひとりひとりが試される神無月の始まりである。但し、ここが出発点という勇気ある指南もある。「あきらめない」ことに尽きる。「中々」をすすりつつ、なかなかうまく行かないご時世ではあるが、若者たちのエネルギーは、なかなか良いものである。

2015/10/01 10:00 | 施設長のコラム

2015年07月31日(金)

地域福祉恐怖症

 朝の忙しなさにNHKの朝のニュースで、「高所平気症」の特集をやっていた。ジャムパンをほおばりつつ、その内容を吟味すれば、「都市部では高層マンションが立ち並び、 必然子育ても例えば地上50メートルで始まるということになる。育児が始まり、成長段階で、子供たちは高さという恐怖、危険が平気になるというのである。転落事故の原因のひとつとなっている」というのである。

 池袋にそびえる「サンシャイン60」の展望室がリニューアルされるというニュースがあったが、かれこれ40年ほど前、元巣鴨プリズン跡地が、サンシャイン60に生まれ変わり、 建設が進む時代に東池袋の安アパートで暮らしていた。完成して多少フィーバーが萎えた頃に、物見遊山で展望室から大東京の一望を眺めたことが懐かしい。いまや、天空に居を構える時代性である。 近い将来、一定のルールが整備され、落ちないドローンが初夏の東京の空を飛び回る時代が来るかも知れない。 「高所恐怖症」の人間たちには、スカイツリーや六本木ヒルズ等の展望室は恐怖を感じるだけの魔の空間であり、多分足を踏み入れることはないが、「高所平気症」は時代が生み出した新兵器症候群なのかも知れない。 そんな感慨に浸ってはいられない。定時の出勤時間に間に合う為、団地の駐車場から、マイカーを走らせる。気がかりは、グループホームのAさんである。

愛の森学園に到着し、担当者に状況を聞く。「汚物にさわってしまうため、不衛生である。他入居者の部屋から物品を持ち出してしまうため、クレームも出ている」との事。結論は即刻退ホーム以外に方策なし。 戻り先はおのずと愛の森学園となる。次に、本人に変わる候補者の選定ということになるのだが、あくまでも利用者本位の自己選択、自己決定が原理原則である。 トレード要員をチョイスするが、本人が拒否、また身元引受人が了解しなければ事は進まない。ひとりひとりの人生がドラスチックに変化するという大事な局面である。原因は「不潔行為」に我慢ならないためであるが・・・ 関係者でディスカッションするが名案は浮かばない、どうも皆不機嫌焦燥状態に落ちて行くような雰囲気に包まれる。診断名があるとすれば、「地域移行恐怖症」に罹患してしまったということになろうか?

 時代性は、障害者権利条約、その他の法整備で、誰もがひとりの人間として街の中で暮らして行く権利が保証される時代となった。しかし、事はそんな簡単な問題ではないのである。 障害特性の中には、「公共の福祉」に反する行動、行為を誘発する特性を有している方もいらっしゃるということである。 隣の家がゴミ屋敷だったら、どうなのか?・・・と不埒な比較はしてはいけないが、明らかに他者に対して迷惑な行動、隣近所への騒音等の迷惑行為に対しての規制はやらざるを得ないのも社会福祉従事者の役割であるということなのである。 地域福祉は決して甘いものではないとあつくあつく思いつつ、我が「地域福祉恐怖症」が癒えて、「地域福祉平気症」となった日には、熱く熱く未来志向の展開を目指したいと考える暑い暑いキラキラ太陽の真夏の日の思いである。

2015/07/31 18:03 | 施設長のコラム

[先頭]  <<    6   7   [8]   9   10   >>   [最後]