愛の森コラム
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2015年07月01日(水)

集団的な自衛の策の行使へ(大藤園の虐待を考える)

憲法は「その国の権力者が守るものであり、どんな権力も、憲法の規定に従って統治しなければなりません。この原理を立憲主義といっています」(池上彰・超訳日本国憲法・新潮社)とある。

昨今の安倍総理大臣の集団的自衛権の拡大解釈には、如何せん納得出来ない我が思考回路であるが、賛成派の皆さんからすれば北朝鮮、中国の唯我独尊のふるまい、またISの悲惨を飛散させるニュース映像を繰り返し、繰り返し記憶すると、「イケイケどんどん」の過去の猛省によって生まれた平和憲法の崇高さは時代遅れの遺物になってしまったということかも知れない。そんな大きなご時世から身近のご時世の話に移ることにする。山口県下関市の知的障害者施設「大藤園」の利用者虐待事件である。

極悪度を火山噴火レベル的な5段階で例えれば・・・
レベル1からレベル5とすれば1「潜在」、2「予兆」、3「心配」、4「危険」、5「虐待」となろうか?

6月11日の朝日新聞の記事の見出しは、「障害者への虐待、施設で常態化か」、同日の毎日新聞は、「複数の障害者に暴行か」。読売新聞は、「市、「暴行映像」提出断られる。調査で把握できず」と切り口が違う。

要は虐待シーンがテレビに映し出され、ユーチューブで広がり、その悪質さが全国津々浦々に広まったということである。映像は衝撃的であった。

先のレベルに則れば・・・「危険」「虐待」という現場の中で内部告発者は悩んだ末に隠しカメラを仕掛けたということであろう。しかし、なぜにそこまで悪質化したのであろうか?「潜在」「予兆」「心配」と進む中で、自浄作用が働かなかったのだろうか?監督する行政、法人の理事長、当該園の施設長の責任は重大と言わざるを得ない。

どうも唯我独尊の北朝鮮のような体質に染まりやすいのが社会福祉法人の特殊性であり、最大の問題性ということかも知れない。法人立ち上げの崇高な志、また個人が法人を動かすという体質そのものが、時間とともに腐敗し、構造的な欠陥を露呈したということかも知れない。

ここは集団的な自衛の策の行使が必要と考える。武力ではなく、尽力をもってする多種多様な障害者福祉への人的投入であり、ネットワークの構築である。例えば、目される社会福祉法人改革であり、第三者評価または検証による利用者本位の自己選択、自己決定に根差した人権擁護体系の構築である。唯我独尊になりがちな法人構造、閉鎖的になりがちな施設構造への転ばぬ先の杖は、集団的な自衛の策の実行あるのみである。「他山の石」の教訓に従い、但しアラさがしにならぬよう気配りしつつ、切磋琢磨の日進月歩を広範に展開するということになろう。時代性を加味した構造改革は急務である。

2015/07/01 09:41 | 施設長のコラム

2015年05月29日(金)

雲間の青空を仰ぎつつ・・・

時は流れて、2045年度を迎えた愛の森である。どうも様子が違う。10階建てのビルに生まれ変わった愛の森は森の里の一角に凛とそびえたっていた。利用者は5階から10階に各自の経済力にあわせて居住スペースがあてがわれ、上階の9階、10階は豪華絢爛なハイグレードサービスのスペースとなっていた。1階、2階は通所利用者の活動スペース、3階に短期入所と統括マネジメントルーム、4階は入所利用者の活動スペースである。5階は各種の浴場がちりばめられ、複数の食堂を中心に癒しスペースとなっていた。定員は40名のままであったが、自由契約のお金持ち利用者(外国人も含む)は9階、10階に5名ずつ入居され、差別化されたハイクオリティの日常を楽しんでいた。1、2階の通所者は50名をはるかに超えていた。社福愛の森は消滅し、株式会社〇〇グループ愛の森に名称替えをしていた。利用者の多くは高齢となり、その多くが車椅子に乗りながら、各階のスペースで各自の時間を過ごしていた。森の里に咲き誇る色とりどりの紫陽花を階下に見つめながらのひと時である。

各階には、多国籍の支援者や各種のロボットが忙しなく動き回っていた。空中にはドローンが風を切って室内、室外を飛び回り、入居者の見守りや雑務をこなしている。意思決定の責任者と執行者はマネジメントに明け暮れ、その配下に支援全般、経営全般を司る少数の管理職、実務は人工知能に託されていた。支援、傾聴、介護は多国籍の人間たちが交替で携わり、利用者への食事、入浴、トイレ等の介助と雑務はロボット(アンドロイド)が担っていた。雲間の青空の中、ドローンが県庁へ書類を届けに出て行った。無人の送迎車が通所利用者の送りに待機を始めた。御承知の通りのシナリオで、ここで夢は醒めてしまい、2015年の愛の森に戻るわけだが・・・

最近のITの目覚ましい進化によって、世の中の変化はめまぐるしい。スマホの機能は日進月歩であり、リニアモーターカー、ドローン、ロボット、人工知能、遺伝子操作等の急速な革新を報道で知るにつけ、障害者福祉においても夢物語と思っていた構造改革が徐々に起こるということかも知れない。勿論費用対効果のリスクはあろうが、例えば、声帯を摘出した、つんく氏のハスギーボイスをもう一度聞ける日が不可能ではないように思う。言語明瞭意味不明瞭である利用者の発言を人工知能が通訳してくれるかも知れない。パワハラ、セクハラ等の労働問題も人工頭脳が調停してくれるかも知れない。但し、こうしたテクノロジーが軍事オタクの研究、つまり人殺しの武器開発から来ていることも忘れてはならない。逆もまた真なりである。平和目的で開発された技術が軍事に転用される場合も往々にして起こるということである。様変わり時代性からの障害者福祉への恩恵を願いつつ、はたしてテクノロジーの進化が本当に人類を幸せにするのか、否か・・・雲間の青空を仰ぎつつの思いである。

2015/05/29 09:42 | 施設長のコラム

2015年04月30日(木)

タブー増殖への杞憂

薫風の季節に「タブー」を考える。角川必携国語辞典によれば、「ある共同体の中で、したり言ったりしてはいけないとされていること。禁忌。また一般に禁句」とある。世の中様々多種多様、千差万別を是としつつ、選択、決定の幅が広がれば広がるほど「言いづらい事」も増殖気味に存在する。

方や思想信条の自由、表現の自由は日本国憲法によって保証されている。・・・とはいえ、共同体の中では「和をもって尊しとなす」は原理原則である。人類共存への英知は「エチケット」「マナー」「ルール」を守るということになろうか?フランスの風刺画家がイスラムのムハンマドを挑発した作画が原因で報復を受けた事件は記憶に新しいが、果たして「表現の自由」は「他宗教の冒涜」まで認められることなのだろうか?いやいや「表現の自由」に「タブー」は存在しないのだろうか?

我が日本にも「タブー」、または「タブー化」しつつある事柄が存在するように思う。戦後70年にあたり、今上天皇はパラオに慰霊の旅をされた。あまたの人間たちが赤紙一枚で戦地に向かい、命を落とした。天皇の鎮魂の思いに深い尊崇の念を覚える。しかしながら、皇室と戦争の歴史を学ぶことはない。北朝鮮問題も今や多事争論とはいかない。沖縄の米軍基地、憲法9条、原発、遺伝子操作の問題等もなぜかトーンダウン気味である。日本国憲法に認められた「思想信条」「表現」の自由の行使こそが大切ということは皆が共有しているはずなのだが、行動に移せない「タブー」とは何なのだろうか?

障害福祉の世界は、ある意味では「タブー」の増殖にデリケイトな課題が山のように存在する。今や「めくら判」「片手落ち」「つんぼ桟敷」等の微妙な解釈が成立する表現はご法度となった。「バカ」「あほ」「ボケ」「与太郎」も「人権侵害」であり、ご法度である。古典落語に登場する憎めない春爛漫のキャラは障害福祉の世界では手厳しく断罪されかねない事態、いや時代となったということである。タブーとなったことは世界標準であり、基本的人権の尊重という憲法11条の偉大さを実感する。障害者権利条約の時代が喫緊に迫り、「タブー」の増殖は今後も拡大すると予測される。

神奈川県知的障害団体連合会作成の「あおぞらプラン」のあおぞら宣言第1条は、「障害者としてではなく一人の人間としてみてほしい」と宣言している。お説の通りであり、非のうちどころのない宣言文であるが、世間はあまり乗り気ではないように感じるのはいつもの私の僻みだろうか?

確かに「バカ」「あほ」「ボケ」「与太郎」の時代からは確実に卒業した。直接的な差別対応は格段に減少したと思われる。〇〇さんと当事者に話しかける福祉従事者が一般化した。○○様と呼んで下さる福祉施設も多くなって来た。しかし、新たな「タブー」が増殖し始めているのではないだろうか?無味乾燥な「形式(マニュアル)」という「タブー」跋扈への杞憂である。福祉の現場は個性と個性のぶつかり合いである。日々の利用者の皆さんとの喜怒哀楽の中で培われた真剣さが「人権擁護」につながるということである。濁ってはならない。「じんけん」侵害の濁点をとると「しんけん」さが浮き出て来るのである。

2015/04/30 18:10 | 施設長のコラム

2015年03月31日(火)

自らに水のごとく

 労使関係の軋轢は55年体制以来の難物であるが、福祉施設の労使関係は実に巧妙なるお役人のらつ腕でカオス状態に埋没している。

 ①処遇改善の上乗せは、直接処遇支援員のみに限定し、その他の職員には各事業者の自己決定(持ち出し)に委ねさせるというやり方。

 ②時代が求める相談支援は、赤字覚悟の不採算事業として押し付けるというやり方。

 職場の労使関係の和を乱しかねない暴挙は、福祉労働種を使命感という錦の御旗の下であやつる褒め殺し体質を感じるのは我が身の僻みだろうか?

 ピケティさんに言わせれば、「資本収益率(r)は、経済成長率(g)より大なり」との事らしい。週刊朝日の記事の解説によれば、「資本主義社会では、普通の労働者よりも株や土地などを投資する富裕層のほうがますます豊かになるということ」だそうである。我が加齢化している脳みそではその解析は難物だが、どうも富める者はもっと富み、貧しき者はなかなか這い上がれない構造が我が日本の現実ということになるらしい。せめて福祉労働者の給与水準がドクター並とまでは望まないにしろ、看護師並、教職員並になれば、労使関係はうまく行くのにと思うのは、やっぱり世間知らずの僻みだろうか?

 そんな労使を離れて老子の話をする。実在したのか、想像上のカリスマだったのか、いまだ不確定のようだが、その高説は意味深である。「100分de老子×孫子」から引用する。

老子は「上善は水のごとし」と説く。「水は大地に恵みを与え作物を育てたり、人々の喉を潤したりと、さまざまな利益を与えてくれます。さらに川を流れる水に目を移すと、しなやかに方向を変えながら岩を避けるようにして流れていきます。そして最終的には、人の嫌がる低い場所(濁っていたり、湿地であったりする場所)に落ち着きます。こうした水のありようを人間にたとえてみると、争いを好まない謙虚で善良な聖人の姿になります」ということである。

 世間知らずの我が身が社会福祉法人愛の森の施設長を司るからには、「自らに水のごとく」を課すことが出来るかは不確定としても「人の嫌がる場所に落ち着く」覚悟と寛容さが求められるということになろうか?上記の①②の不届き千万な蛮行への怒りの吸収と打開こそが「人の嫌がる場所に落ち着く」ことにつながるということになろうか?

 前月のブログでは年度を一年読み違える間違いを起こしたが、2015年度は2016年度を視野に入れつつ、二年計画の奮闘が始まると弁解がましくも宣言することにする。「自らに水のごとく、争いを好まない謙虚で善良な聖人(我が身として常識人)」を目指したいと考える新年度の始まりである。

2015/03/31 18:14 | 施設長のコラム

2015年02月27日(金)

「信望」を得るには「心棒」と「辛抱」が必要か?

 弥生の春は年度がわりの月でもある。愛の森にとって、また私自身にとって「ツキ」があった2015年度だったか、否かの詳細は改めて自省しなければいけないと思いつつ、来たる2016年度はときめきと輝きのある実績を目指したいと思いつつ、但し身の丈も忘れない謙虚さを伴う挑戦としたいと慮るのである。


 新年度の大きな目標は、愛の森として、また私個人の身の丈として、劣化しつつある信望を勝ち取りたいと思っている。前者の「信望」の欠落は本年度に大きな事業展開が出来なかったこと。戦略、戦術の見直しは必然と考えている。後者の「信望」の欠落は、施設内の不協和音への調律がうまくいかなかったことである。新たな「信望」回復結実の「小異を残して大同につく」人材育成の「心棒」と「辛抱」が肝要と考える。


 世の中の変化は、傍若無人の「イスラム国」の脅迫にも毅然たる対応に終始した安倍政権の下で、着々と日本改造計画が進んで行くと想像する。少子高齢化にして、格差社会にして、超国債発行の借金まみれの下での集団的自衛権の行使、原発の再稼働、特定秘密保護法の拡大解釈が展開し、数の力による憲法改正は必然ということになろうか?私の思考回路にとっては、賛成しかねる由々しき事態の下で我が人生の高齢化も加速する。


 障害者福祉はどうなのか?勝手ながら思い巡らせば、多分来たる消費増税10%となった時点で、介護保険統合への道が突然に打ち出され、同レベルの単価減額に陥り、枯渇する職員確保には、すずめの涙程度の恩恵処遇加算が引き続き設定されるのではないかと考える。「生かさず殺さず」ではなく、「活さず無くさず」の障害者福祉政策の中で何とか運営継続をはかるということになろうと考える。一法人一施設という小さな経営形式は、「包括」と「経営効率」という掛声の下で、合併を余儀なくされ段階的に持ちつ持たれつのホールディングスを形成するということになろうか?「信望」の「心棒」はカネ頼みとなり、かかわる福祉従事者は更なる「辛抱」を余儀なくされると想定するのは誇大妄想だろうか?


 障害者福祉に求められることは、打たれ強い「心棒」と「辛抱」であると考えるとこんな分析が成り立つ。つまり、福祉従事者ひとりひとりがヒューマンサービスの供給者として自立し、受給者である利用者から如何に「信望」を得るかと捉えれば、ひとつはぶれない福祉観の「心棒」であり、もうひとつは逆境を忍ぶ「辛抱」となろう。反面教師の傍若無人的「心棒」であってはならない。また被害妄想的な「辛抱」であってはならない。
自己を円熟させるためにはたくさんの月日が必要となろうが、その成就には飽くなきまい進あるのみである。障害者福祉は利用者の皆さんの年齢差、性差、障害特性差、障害支援区分差、生活環境差、家庭状況差等によって複雑に絡み合い十人十色、千差万別である。ゆえに凌駕への道は難所続きなのである。新年度は、「転機晴朗願うも波高し」を予感する。「信望」を勝ち取る「心棒」と「辛抱」が試される。

2015/02/27 18:07 | 施設長のコラム

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