愛の森コラム
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2016年06月01日(水)

拡大解釈「自由」と拡大解釈「規律」

ヘイトスピーチへの規制の法整備が国会にて整った。他民族の人間たちへの尊厳を踏みにじる悪態、暴言、いやがらせの行進が、在日朝鮮人が暮らす街々で繰り返される。俄かに考えれば、言語道断である。しかしながら、エセ愛国主義者たちからすれば、集会、結社の自由は憲法で保障され、「悪態、暴言」と言われる言動は、それは価値観の違いにあり、表現の自由であるとの拡大解釈「自由」を主張する。考えようによっては、シリア難民を拒否するヨーロッパの国々の排他的態度やその背景にある愛国主義的他民族排斥運動も根っこの構造は同じということになろう。「国益」「利権」「既得権」は他民族には絶対渡さないということである。つまり、片方の拡大解釈「自由」を守る為には、他方に拡大解釈「規律」という名の「不自由」を課すという構造である。孔子が説く「中庸」の難しさが人間社会を蝕んでいる。狭義に考えると愛の森学園という小さな集団でも、そんな場面が時に発生する。この冬から春にかけて流行したインフルエンザ蔓延の中でのあれこれである。

それは、インフルエンザ感染者と非感染者への対応である。狭い空間に多くの利用者がひしめく入所施設空間では、感染者から非感染者への新たなる感染を防止する術が求められる。これは、利用者への「身体拘束」で最小限認められている「切迫性」「非代替性」「一時性」を拡大解釈して、感染者と非感染者の居室交換等を事業者の選択、決定として一方的に、即座に行う棲み分け策等である。拡大解釈「自由」を保障したい非感染者のためには、感染者に拡大解釈「規律」という束縛をかけるということになる。それは、「安静にして部屋の外に出ないで下さい」ということである。しかしながら、トイレ、食事等の生理的欲求現象の中では、感染者と非感染者の接触が往々に発生し、新たな感染者が生んでしまう危険性が多々現実化する。それではと・・・拡大解釈「規律」をさらにバージョンアップさせて「施錠」する策、つまり「隔離拘禁」することが頭の隅に浮かぶのだが、先の「切迫性」「非代替性」「一時性」の観点からすると、冷静にして慎重な判断が求められることになる。更に、「人権」と「生命」とどちらが大事なのか?・・・との危機管理を問われた場合はどうか? 多分「施錠による感染防止」というハイリスク回避の「生命優先」の可決が想定される。イコール感染者の「隔離拘禁」てある。果たして、福祉の現場でやるべき選択、決定なのか、否か・・・正直言えば、「やりたくない」拡大解釈「規律」であろう。 

もうひとつは、経営への影響である。感染者拡大に伴い、通院付添、一部利用者の帰省対応、通所生活介護利用者の受け入れの一時的停止、ホーム入居者に発生した場合は、感染者の施設受け入れ、ホームで療養する場合の新たな支援者の配置等が必要となる。相応の収入減と支出増となり、経営面のダメージにつながる。加えて、支援者に感染者が出た場合は、ローテーション勤務に穴が空き、その穴埋め、穴埋めの自転車操業綱渡り状態が続くのである。

つまり拡大解釈「自由」の保障という理念、またその裏側に、上記のような修羅場状態の中で拡大解釈「規律」という名「不自由」さが混沌の中で混乱する現実が入所型の障害者支援施設の実態なのである。事は深刻さを増している。ご理解いただければ幸いである。

2016/06/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年04月28日(木)

「雑毒の善」熊本地震に思う

歎異抄(親鸞・筆者は唯円)に学べば、「雑毒(ぞうどく)の善」(煩悩の毒の混じった善のこと)とは「この世は生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません」と説く。

熊本地震の現実は、あまたの倒壊した住宅の数々、青いビニールシートに隠された絶命されたとおぼしき人間たちの救出、いや搬出、えぐりとられた茶色の山肌、威風堂々だった熊本城の哀れな落瓦、落下した大きな橋脚、避難所に押し詰められたあまたの人間たちの焦燥と行列・・・。テレビ画面に日夜映し出される。その臨場感と緊張感の青天の霹靂の現実が、まさに熊本の陽春の空の下を赤裸々に浸食している。

 

東日本大震災から5年と1か月後の悲劇が早く落ち着きを取り戻し、復興へと向かう事を切に願いつつ、身の丈で我が思いを実行したいと思うのだが、所詮「雑毒の善」である。「何が出来るの?」と自虐的に問い詰めれば、ささやかな募金が関の山ということになろう。災害ボラとして、勇猛果敢に現地へ行ってみよう・・・という難行は、我が自力では土台無理である。ここも、親鸞に学びつつ、「易行・・・他力の仏道」に帰依するしかない。

そんな思いにかられつつ、熊本県、近隣各県の障害者入所支援施設では、日々余震に怯えつつ、どんな運営を続けているのだろうか? 多分、複数の管理職は泊まり込みの寝ずの番をし、物品、食品、薬品等の調達、身元引受人とのやりとり等に奔走している事だろう。

現場の職員たちも自らの家族、親族を労りつつも、利用者支援の最前線で奮闘している事だろう。もしかしたら、施設からの脱出を余儀なくされた職員たちは大勢の利用者をマイクロバス等に分乗させて、受け入れ先の福祉避難所や遠方の障害者施設に身を寄せているかも知れない。また、職員の中には家族、親族に生命の危機、住宅の倒壊等の悲劇のさ中にあるかも知れない。こんな切ない思いの数々も「雑毒の善」に違いない。愛の森学園は通常通り、朝昼夕の3食が利用者に提供され、職員も就業規則に従い、職務をまっとうしているからである。私も17:30には、退勤の時間を迎えることが出来るのである。

 

あまり危機感を煽ってはいけない緊急事態とは思いつつ、避難住民が「我慢の限界」「堪忍袋の緒が切れた」とばかりに飽和状態に達し、避難所の秩序が崩壊し、無政府状態になったら大変なことになる。まずは「衣食足りて礼節を知る」との故事に習い、物流を円滑に機能させることが肝心であろう。警察、消防、自衛隊+米軍、災害ボラの活用ということになろうか? 加えて、広域避難である。「我が家から離れる」事への抵抗感はあろうが、治安は警察や自衛隊に委ね、余震のない遠方への「住」である。ホテル等を一定期間、国費等で借り上げ、滞在するということである。「子ども教育は・・・」「高齢者、障害者の介護は・・・」となるが、まずは元気な人間たちが支えつつの限定的集団疎開がベターと考えるのだが・・・?

しかし、これも「雑毒の善」になろう。大きな流れとしては、消費税10%はこれでなくなるだろう。深読みすれば、東日本大震災の復興、2020年の東京オリンピック、原発の再稼働等に暗い影を落とすかも知れない。その影で気になるのが。障害者福祉への負の影響である。「地域移行」は大丈夫か? これも「雑毒の善」であるが・・・

2016/04/28 19:07 | 施設長のコラム

2016年04月01日(金)

福祉労働は近未来のトレンド

3月のコラムに、「満身創痍」から「平身低頭」「全身全霊」とハイテンションのスローガンを書いてみたが、果たして福祉従事者の心は初心貫徹状態に復活しているだろうか? ひとりひとりの福祉従事者の責務の堅持を期待しつつ、「保育園落ちた。日本死ね」と炎上した保育には光が射しかけ始めたと思いつつ、障害者福祉は来たる参議院選挙のネタにも上らず、改めて「全身全霊」のやり直しというのが現実かも知れない。但し諦めてはいけない。下記の分析が正しければ、近い将来花形の仕事に生まれ変わる可能性が高いということである。過程から言えば、「IT」の目覚ましい進化によって「人工頭脳」が飛躍的に発達し、「ロボット」「3Dプリンター」等が日常生活の中に浸透すると想定される。それでは、どうして障害者福祉が近未来にトレンドに様変わりするかというと価値の基準が大幅に変化し、「カネ」の資本から「ヒト」の資本へと価値が転換するから、ということである。

 とある識者によれば、資本とは「カネを生み出すカネ」のことであると言う。しかし、「IT」の劇的発達は、ものづくり、野菜づくり、物流サービス等を担う労働者の仕事を奪うというのである。また「人工頭脳」の進化は、囲碁の達人に勝利したように、高学歴のエリート層の持つ能力をも凌駕し、そのイノベーションを奪ってしまうというのである。

 例えば、日用品製造工程の完全無人化が可能となり、農園芸にしても無人の野菜、果物、花生育工場が可能というのである。物流も「ロボット」「自動運転車」「ドローン」等がその役割を果たす。また創意工夫が人間の最後の砦と思いつつ、「育成型人工頭脳」にとってかわられるというのである。そう考えれば、「カネ」稼ぎは「人工頭脳」や「ロボット」等に委ね、「ヒト」への投資を大切にする社会構造になるという。それは、「ヒト」があくせく働かない社会であり、善意に捉えれば、互いが「分かち合う」社会の形成である。前者は「ベーシックインカム」の保障であり、後者は「ワークシェアリング」の推進である。

 そう遠くない将来、愛の森学園は、元「製造」「物流」「農園芸」「IT」等に従事していた人間たちが職を求めてたくさん集い、利用者支援その他の業務を生き生きと担う時代がやって来るのである。労働時間は一日6時間、週30時間である。支援者は相互にワークシェアする。賃金は、「人工頭脳」や「ロボット」によって稼いだ国家資本から、ベーシックインカムによって、現金給付が保障されるため、福祉労働は単に可処分所得のみ稼ぐということになる。余裕を勝ち得た福祉労働者により、平和な利用者の日々が保障されるのである。つまり、障害という社会的不利を授けられた利用者への支援その他の業務は「IT」の進化から取り残される要因が大きいため、逆に生き残る可能性が高いということである。

 そんな夢みたいな話があるのか・・・と疑うかも知れないが、テレビで紹介されたアメリカのタクシー会社の倒産は、「スマホ」普及によるマイカータクシー(白タク)の新ビジネス台頭が原因という。時の流れはまさに不透明ということになる。

 北朝鮮やISの暴挙、トランプ氏の不吉な台頭等、時代はまさに不透明ということになる。但し戦争をしないこと。加えて大きな自然災害に備えることを肝に命じつつ、障害者福祉の仕事が近い将来の花形になることを期待し、新年度幕開けの希望の御紹介である。

2016/04/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年03月01日(火)

「〇身〇〇」の2016年度へ

 2015年度も終焉である。暖冬の恵みか、いたずらか、との判断に戸惑いつつ、桜の開花は早いかも知れない。華やぐ季節の始まりであり、木々の新芽や花々の芽吹きに心躍る弥生3月である。  そんな季節は、桜散る儚さもついてまわる。職場の去る人、進学が思うように行かなかった人、愛する人をバス事故で失ったご家族の皆さん、あまたの戦火の中で命を失った人間たち、また逃げ惑う人間たちにとっては、憂鬱の春、痛恨の春ということになる。  そんな季節のゆがみの中で、障害者福祉にはどんな展開が待っているだろうか?視点をマクロ的にリサーチすれば、以下の懸案が背後に横たわる。

・来たる参議院選挙で、与党圧勝予測は憲法改正に突っ走る起点になるのか?
・高齢者への3万円バラマキ、消費税10%と定減税率。格差社会は緩和するのか?
・石油価格下落、株価安、円高の経済動向の中で、抱える借金はどうなるのか?
・東京オリンピックと東日本大震災復興の公共事業は、景気浮揚のエンジンの役割を果たすのか?
・北朝鮮の暴走、中東戦火の余波であるISや難民問題が日本の社会秩序に影響を与えて来るのか?
・アベノミクス第2の矢の2つである「介護離職ゼロ」「出生1.8人達成」に光明が出て来るのか?
・規制緩和の落とし穴である市場原理の過酷さに、例えば大きなバス事故を起こさせないための仕組みを整備することが出来るのか?
その他諸々の課題、問題、難題の中での「障害者福祉対策」は矮小化され、巧妙なる策略の餌食になってしまう危険性が大かも知れない。ここで、「〇身〇〇」の四文字熟語でまとめる。その前に知的障害者福祉は、下記の課題、問題、難題が露呈すると想定する。
・理念重視の課題、問題提起との現場の齟齬である。その最たるものが障害者権利条約の拡大解釈であり、当事者の立ち位置と福祉現場の疲弊の誤差は深刻さを増すだろう。
・次に予算確保の限界と規制緩和の拡大である。一部の社会福祉法人の伏魔殿体たらくが、その他多くの社会福祉法人に長年受け継がれて来た「恕(思いやり)」の使命感の 転換と消耗を余儀なくさせる現実である。現実とは不誠実な市場原理の導入である。
・加えて労働者の権利意識と職業選択の拡大で、福祉労働に携わる若き「恕」の心を有する若者たちの枯渇である。低賃金と重労働が拍車をかける。

 つまり、障害者福祉は、ミクロ的視点から見れば、満身創痍状態になりつつあるということになる。贔屓目に見ても崩壊への浸食は始まっていると考える。その抑止には利用者への謙虚な姿勢と日々の利用者支援、組織防衛にまい進する実行力のみということになろう。それは、平身低頭にして全身全霊の使命感である。 新年度は更なる荒波(社会福祉法人改革等)が立ちはだかる。「恕」の心を維持しつつ、課題、問題、難題に立ち向かう。平身低頭の心得を維持しつつ、全身全霊の挑戦が始まる。

2016/03/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年02月01日(月)

さるすべり 君を想いて 僕は猿

 神学論争とは「結論の出にくい議論」のことであり、同義語に「水掛け論」「堂々めぐり」の表現がある。これはネットで学んだ俄が知識である。如月の寒い朝にとある公園の「さるすべり」の老木を見ながら、一句。そして「結論の出来にくい話」を考える。 「さるすべり 君を想いて 僕は去る」(君とは当事者である)
 昨今の知的障害者福祉は寒風の中で、自らが乾布摩擦で放熱するよう仕向けられた時代性かも知れない。その寒風とは・・・?「結論が出にくい話」の始まりである。

 「知的障害者の意思決定支援の在り方に関する検討委員会の意見」(公益財団法人日本知的障害者福祉協会・平成27年9月8日)によれば、知的障害当事者の「意思決定」について以下の考えに至ったとの事である。

 意思決定支援とは、障害者本人の意思が形成されるために、理解できる形での情報提供と経験や体験の機会の提供による「意思形成支援」、及び言葉のみならず様々な形で表出される意思を汲み取る「意思表出支援」を前提に、生活のあらゆる場面で本人の意思が最大限に反映された選択を支援することにより、保護の客体から権利の主体へと生き方の転換を図るための支援である。

 筋論としてはごもっともと思いつつ、様々な疑問、難問、鬼門が頭の中を駆け抜ける、 要は「無理でしょ!」ということである。勿論温度差の問題性であり、支援する姿勢の提起と想像しつつも、現実味をまったく感じない「結論の出来にくい話」である。ここで変句する。「さるすべり 君を想いて 僕は猿」。ここは猿知恵をお借りするしかない。

 空想の世界から奇特な老猿が我が頭の中に出現する。「見ざる」「聞かざる」「言わざる」ではない「言いたい放題して猿」である。一句読んでいただく。  「ささる棘 抜きようやく(要約?) 痛み去る」

 「結論の出にくい話」を私なりに要約すれば、知的障害者に寄り添う見せかけの問題提起はご法度ということであり、「保護の客体」から「権利の主体」と検討委員会の面々はのたまうが、障がいという神からの定めを受け入れざるを得ない人生は「保護が主体」であるべきであり、「権利」は日本国憲法に準じれば良いのである。いやいや知的障害者の皆さんにとっての現実はそんな生易しい世の中ではないとのご主張も相応の説得力があるとは考える。しかし、少子高齢化で借金を重ねる国家財政の中では身の丈は必然なのである。日々悪戦苦闘している現場の福祉労働者に「結論の出にくい話」の迷路に迷い込ませる空理空論は「喝」である。

2016/02/01 11:23 | 施設長のコラム

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