愛の森コラム
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2018年05月01日(火)

自分で決めるということ

 学生時代に先生に教わったことを思い出す。社会福祉の概論や施策は目まぐるしく変化する。10年ひと昔というが、社会福祉も10年で大きく変化するといった話だったと思う。私が知的障がい福祉の仕事に携わり26年が経過した。確かに利用者さんへの支援、福祉施策、事務仕事などなど、随分変わったな・・・と思う。

 そして今の時代は意思決定支援が大きなテーマである。どんな重いハンディキャップを持っていても自己選択の力はあり、その力を引き出す支援をするということが意思決定支援ということだろうか。(随分と簡略してすみません)愛の森学園でも、研修会を開き、支援員にガイドブックを配布し、皆で勉強中である。

 

そもそも知的にハンディキャップを持って産まれた方は、特に意思決定をする機会自体が少なかっただろうと思う。意思の表出が少なければ、周りの人々が決定をしてしまっていただろうし、親や支援者はこの子(利用者さん)を守るべき存在と思うばかりに本人が決められるべきことも親や支援者が決めてきた過去が少なからずあっただろう。それが意思決定の機会を奪っていたといわれる訳である。

 私の場合、三人兄弟の末っ子で比較的放任で育てられたこともあって、自らの決定に否定されることは少なかった。そういう子供の頃からの経験というのは大切で、失敗も成功も経験することは必ずその後の人生に役に立つものである。

 それは知的にハンディキャップを持つ方も同じで、普段から自分で決めることをして来なければ、自分で決めることなんて出来ないし、自分で決めたことに失敗と成功の経験がなければ、現実的な意思決定をする力は養われないと考える。親や支援者が決めてくれる環境に身を置いていれば、おのずと自分で決めることすら出来なくなるし、考えることをしなくなるだろう。

 

 支援者は、その人(利用者さん)の小さな思いをいかに汲み取り、小さなことをいかに実現に導くか。それこそが、その人(利用者さん)の意思決定の力を伸ばす方法なのだろうと考える。支援学校や障がい児支援においては意思決定を幼少期から伸ばす教育・支援が行われていると聞く。障がい者支援においては小さな意思決定の機会を大切に、意思決定を導く支援に力を入れていかねばと考える、

 伝説の漫才コンビやすし・きよしの西川きよし師匠が「小さいことからコツコツと!」と言う。この言葉の意味合いは、意思決定支援には全く関係ありませんが、我々支援者は障がい福祉の専門家として「小さいことからコツコツと!」日々の関わりを大切にしていかねばならない・・・そう思うこの頃です。

 

愛の森学園 総務責任者 武藤祐生

2018/05/01 09:35 | 職員のコラム

2018年03月30日(金)

世代交代

 世の中を見渡せば、二重構造はそこらかしこに見受けられる。障害者福祉に関しても、「意思決定支援」と「成年後見制度」の両者の意義、定義は、相反すると考えている。利用者本位の自己選択、自己決定を主張する「意思決定支援」と、利用者本位の自己選択、自己決定に課題があるので、下支えする「成年後見制度」は相矛盾すると誰でも理解できる。しかしながら、両者が共に推進される時代性の中では、タブルスタンダードが障害者福祉関係者、また当事者の宿命かも知れない。「どうすればよいの?」と聞かれたら、「ケース・バイ・ケース」と回答するのが一番率直にて謙虚であると私は考えている。両者を全否定、全肯定しない術である。例えば、世代交代を考えると「年齢を重ねつつ、培った英知を社会に還元する」と考えれば、いろいろな役回りは終身保証制ということになる。片や「新しい感性、発想で新時代を開拓する」と考えれば、世代交代は必然である。例えば政界を勘案すれば、比較的若手のリーダーを誕生させる政党と長期、固定のリーダーが、腰を据え続けている政党が存在する。前者は、「若手登用」に希望はあるのだが、未熟さのためか「内部対立」「分裂」を繰り返す。後者は「権力」+「権威」の構造となり、「もの言えば唇さみし春の風」に陥る独裁化が見えて来る。安倍総理は、一強多弱の唯我独尊状態下で、「東京オリンピックは自らの総理在任中にやりたい」と3期目を目指す。これも慣例の2期交替制度を自ら改革(?)した心意気への賛否両論付きまとう。

 さて小さな世界になるが、「愛の森は世代交代の道筋はどうするのか?」ということになるのだが、まずは次世代を担う人材の存在が不可欠である。次に本人に「施設長の職責をまっとうする」意思表示が前提となる。「やる気のない職員がやるべき職責ではない」と私は考えている。しかしながら、有能なマネジメントには到底及ばない私の全踏襲を望んではいない。世代交代するリーダーに望むことは、利用者本位の自己選択、自己決定の最大限の尊重であり、配下となる職員に対してはメリハリのある時間管理、労務管理の実行ということである。

 知的障害者福祉は、奥深い光と闇が交錯する世界である。「光を見出し、闇を照らす」適性が不可欠なのである。上記に記した「二重構造」は寛容としつつも、自らの内心に潜む「二重構造」を自己変革出来る人材が世代交代の必要条件ということかも知れない。うわべだけでつくろう人間、過去の権威にすがる人間、利用者への偏見が内在する人間・・・この輩には禅譲しない心構えである。そんな希望と苦言を抱きつつ、次期愛の森を背負う人材に宿題を課すことにした。そのひとつとして、長く続けて来た愛の森のコラムを後身に分割してプレゼンテーションしてもらうことにした。是非、5月からのコラムを楽しみにしていただきたい。また、読んでいただいた方に「評価」をしていただきたいと思っている。特に負の「二重構造」を感じたら、メスを入れていただきたいと希望する。また良き内容についてはご賞賛をいただきたい。障害者入所施設は、良きにつけ悪しきにつけ、十年一日のごとく、日々が過ぎ去る構造にあった。その構造への改革が世代交代である。読んでいただく皆様のご支援を期待しつつ、新年度スタートへの希望である。

2018/03/30 18:00 | 施設長のコラム

2018年03月01日(木)

自問自答

 いまだインフルエンザと大雪の再来を不安にかられつつ弥生3月を迎えた。桜のたよりを心待ちにしながら、冷え冷えとした空気に身も心も耐え忍ぶ日々が続く。

 ピョンチャンオリンピックの日本人選手の大活躍に感銘と感激をいただきつつ、近々に静かなパラリンピックの熱戦が始まる。崇高なクーべルタン男爵が描いた商売っ気なし、政治色なしの「オリンピック」は過去の遺物となりつつあるようだが、これも進化のさだめとして理解するしかないのかも知れない。薬漬けの国威発揚、冠レース、拝金主義、エリートアスリート育成、国家による管理、政治家達の権謀術数、闇取引の臨戦の場に成り下がってしまったようで、理想から乖離し続ける未来への心配が走る。せめてパラリンピックには優勝劣敗だけではなく「オリンピック」の種火(参加することに意義がある)だけは頑として残していただきたいと切に願うのである。そんな世相の中でも愛の森は、寒風の外とは真逆なヒーターのきいた温室空間の中で、年度末への総決算期を迎える。概略すれば、障害当事者の意思決定の有り様、生活スタイルの有り様に対して「目標値を為し得たか?」「為し得なかったか?」の採点評価づくりである。昨年4月にはかなりセンセーショナルな宿題(利用者個別の意思決定権)をいただきつつ、いまだ四苦八苦の状態から脱し得ないのだが・・・。私自身も私的にも、難題をかかえつつ、年度の締めを司る日々にある。下記は、そんな中で私自身の心情吐露である。

 要は、憲法11条の「基本的人権」、25条の「生存権」への感謝ということになる。但し、難題は、自らの障害認定を認知するハードルの高さに狼狽しているということである。原因は、透析治療が始まったことにある。その治療には高額の医療費が投入され、身体障害者として認定され、様々な権利、権益が付与される。他者がその状況に至った場合は、かかわる支援者は制度、法律に則ったサービス受給への手助けに努め、当事者の生活の質を死守すべき努力が使命となる。しかしながら、ある時点から、サービス提供者が受給者に変わった場合の狼狽を味わうと自らのささやかな矜持を崩壊させかねない何とも言い知れぬ挫折感にさいなまれるのである。これは完全な我が独善の崩落であり、甘えの構造の結果かも知れないと思いつつ、その揺れの中での自問自答の毎日が続いている。つまり、サービスの供給者が受給者に変質した場合に、殊の外憲法の崇高な理念に救いを求める日々、いや感謝の心情が湧き出すのである。健常者として世の中を立ちまわっていた過ぎ去りし日々には、「平等」「公平」「共助」と強く主張していた小生なのだが、社会的弱者の立場として「権利」「恩恵」を預かる側に転換すると、「平等」「公平」「共助」が如何に長い長い歴史の中で培われた偉大な人類の思考回路の結実であり、うらを返せば、ガラス細工のような脆い構造の積み重ねであるということを実感する。人類が進化の中で貨幣を生み出し、その資産の多寡によって、持つ者と持たざる者の間に格差が現出し、徐々に肥大化、その不平等の打開の英知が「基本的人権」「生存権」の保障に繋がったと想定すれば、我が身はその歴史の下で、障害当事者としての生き方が保障されたということになる。

 弥生の寒風の中で、愛の森という小さな社会の中で「参加することに意義がある」を再度見つけ出し、また見直して、自らの方向性が試される自問自答を繰り返す。

 桜の花を心待ちにしつつ、また散り際をも予見しつつ、新年度を迎える。

2018/03/01 09:00 | 施設長のコラム

2018年02月01日(木)

不思議な世界

 新年度早々の愛の森の初夢、いや初サプライズは、利用者の所在不明であった。帰省中の出来事であり、3日後に実父に救いを求め、「一件落着」とあいなった。私自身多少の事前策欠如の罪悪感に苛まれる日々は終了したのだが、はたして「一件落着」なのだろうか?

 まずは、「所在不明」の原因追及が始まる。「年末年始のウキウキムードに本人なりの満足感がいまいち足りなかったのではないか?」との分析となる。「今回はお年玉を知人から受け取っていたらしい」との経済的にリッチであった原因が加わる。「ここ数年所在不明がなかったので、支援者に安心感があったのではないか?」「帰省前の本人との話し合いをしなかったのは今から考えると痛恨のミスだった」との反省の弁も聞かれる。「性的な高ぶりによる放浪癖は如何せん根本的改善は難しい」「社会性を逸脱する利用者本位の自己選択、自己決定は決定的な負の要因なのだが、その習慣性への抑止手段は皆無に等しい」「本人の特性として放浪癖をせめるより、そうした状況を改善させるべき支援者側の姿勢が問題である」等、百家争鳴のディベートはつきない。しかしながら、本人はどう考えているか?実は意外に淡泊である。怒られようと叱られようと、時は流れ、拡散することを百も承知済みであり、「手荒なことはされない」という人権擁護の禁断の世界を知り尽くしているのである。そのうち職員が折れて来ると本能的に察知しているということである。知的障害ゆえの想像力、善悪の判断能力の稚拙さ、他者が心配したり、憤ったりしている気持ちの感受性の欠如は、残念ながら決定的な阻害要因である。「悪かった」「二度としない、いや出来ない」「社会的制裁が怖い」という社会性の理解力が疎ければ疎いほど、再犯(?)は必然となる。ここが知的障害者の特性であり、利用者本位の意思決定権の最大のネックなのである。最後に出て来るのが、恩情派、ないし原理主義者からの諭しである。「支援者が駄目だから、利用者は問題行動を起こすのだ」という類の論陣である。「そもそも愛が足りないから、いけない」「利用者の意思形成、意思表出を怠ったがゆえの行動なのである」「利用者本人が一番困っているのであり、救いを求めるための行動なのである」等。所在不明を繰り返す利用者がいつのまにか善人となり、そうした行動に追いやったかのような支援者が悪人となるという構図である。

 ともあれ、結果として「一件落着」の後は、本人は通常の生活に戻り、多少の反省の色を見せながら、三食お風呂付の生活に戻っている。関わる支援者はその現実への様々な温度差の中で、本人と自らの微妙な距離感に困惑しつつ、されど無視はせずに平常心をつくろいながら接している。放浪は罪ではなく、「特性」なのである。「反省を促す」ことは必要と思いつつ、「悪い」と真に理解出来ない(しない?)以上、「説得」は説得する側の自己満足だけに帰結してしまう。「様子をみる」ことは、「ネグレクト」と誤解されかねないため相応の時間の後は普段に戻るしかない。結論はまたとしても猶予である。今度また彼が所在不明になった時に考えることにしよう。そうさせないためには、がんじがらめの日課強制しかないと我が心の中で悪魔が囁くのだが、それは絶対に出来ない相談である。知的障害者福祉は「不思議な世界」なのである。

2018/02/01 09:00 | 施設長のコラム

2018年01月01日(月)

信念あけましておめでとうございます。

平成30年1月吉日

信念あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

利用者一同

職員 一同

 

 

本年は、戌年に鑑み、目標は、利用者、職員それぞれがオンリーワン達成を目指し、またワンパターンにならぬよう、ワンダフルなワンシーンの結実に努めます。  

 

下記は我が思いとして・・・          

  負け犬に ならぬ健闘 真剣に         

  謙虚さは 検証重ね 健全に

  剣ヶ峰 吠えてはならない 謙譲に        

  人権は 意見の封鎖 それ違憲        

  ワンアップ 手腕は各自の オンリーワン

2018/01/01 00:09 | 施設長のコラム

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