愛の森コラム
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2017年09月29日(金)

「窮鼠」対「百獣の王ライオン」の近未来

昨今「窮鼠」と思われた北朝鮮が「大鼠」への野望を繰り返す暴挙には、各国の反応同様、私の俄か認識でも言語道断と考える。特にその矛先となっているトランプ大統領率いる「百獣の王ライオン」アメリカの敏感な反応に戦争への危機感を禁じ得ない。 要は「沈静化」を願いつつ「抜本的対策」はなきに等しい。北朝鮮の度重なる核実験、ミサイルの発射とその進化は、危険極まりない領域に達してしまったということである。国家崩壊の危機が生み出したあだ花がキム王朝の独裁継承であり、その手段が「先軍政治」、つまり国民の「幸せ」や「平和」など関知せず、最優先が「軍事力」「チュチェ思想(主体思想)」の強化であり、不満分子を粛清し続ける国家統制と推察する。

我が解釈の背景には朝鮮併合という日本統治の負の遺産がつきまとう。また、その後に朝鮮戦争の経緯として38度線で対峙する休戦状態が続いているという現実がある。

 

あえて、北朝鮮側から想定すれば、「ガダフィ」や「フセイン」」にならないためのサバイバルであろう。米韓合同軍事演習を繰り返す憎っくき敵国が核を保有する超大国アメリカである以上、対決するには、同様にICBMを製造し、核保有国の仲間入りをする事こそが生き残り策と盲信しているということになる。一般国民の窮乏や反逆は、圧迫と粛清で対処する。アメリカの核の傘の下にある日本も同様の敵であり、朝鮮併合の遺恨は「チュチェ思想」に染まった大多数の国民に憎悪を共有させ、運命共同体へと結びつける要因(主体)となる。つまり、民主主義を全否定するためには、カリスマ将軍様の下での傍若無人の強権的政治こそが北朝鮮に残された最終手段ということになろう。多分、障害当事者や障害を持って生まれた人間たちは抹殺、または閉塞された空間の中でもがき苦しんでいるものと想像される。  

 

朝鮮戦争が休戦協定となった頃に義務教育を迎え、高等教育で育って来た私にとっては、アメリカが作ったと揶揄されども崇高な日本国憲法の三大理念「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」は死守しなければならないと考える。但し、「窮鼠がライオンを噛む」事態になろうとしている現実を突きつけられると、アメリカの「飼い犬」からの日本の「独り立ち」を求める論陣が幅を利かせる状況に杞憂する。つまり、憲法の「平和主義」をも改悪して、わが日本の「国家存続」「国体保持」のために「闘犬」へと変身させる策略である。「国家防衛」のための「憲法改正」の下で、軍事力増強、核兵器保持、対ミサイル防衛網整備等の準備と実行が画策されるのでは・・・と杞憂する。

「北朝鮮が暴発したら」「アメリカが先制攻撃をしたら」日本にミサイルが飛んで来るかも知れない。各種防衛システム(PAC3、イージス艦等)の網の目を掻い潜って、テポドン、ノドンが狙うのは、在日の米軍基地であり、自衛隊基地であり、大都市圏の中枢であり、原子力発電所かも知れない。〇月×日の△時□分、Jアラートが鳴り響いき、5分後に大爆音と天空に火の玉が現れる。電磁パルス攻撃が日本を壊滅に導く瞬間の蛮行である。想像力は恐怖感を醸し出す。

 

子供の頃、ある先生から聞いた「みんな戦争はしたくはないと思っています。でも、なくならないのです」が蘇る。始まってしまったら、多く命が失われる。シリア難民や追われるロヒンギャの人たちの映し出される悲痛な表情が重く重く脳裏に浮かぶ。そんな危機的事態の中で、平和の祭典が韓国ピョンチャンで開かれる。人類の英知が試される近未来である。

2017/09/29 18:04 | 施設長のコラム

2017年09月01日(金)

「説明責任」と「カバナンス強化」

先月、本法人のグループホームで大きな事件が発生し、一部の新聞に掲載された。

事は傷害事件であるのだが、加害利用者、被害利用者のひととなり、またその経緯はここでは触れない。私の判断として、その整理整頓が実に厄介であり、相互の人権の観点、また関係者の立場性や思想信条の自由が複雑にからむ故である。ご了解いただきたい。

但し各方面から説明責任が求められる。民主主義(ここでは利用者中心主義)を尊び、関係者各位に事件の内実の説明をすることになる。まずは、経営者たる理事長、理事会。次に監督権者である行政(県と市の障害福祉課)。次に本法人の全職員への説明。それから、順不同で記載すれば、警察、病院(被害利用者の緊急搬送先)とのやりとり、加害利用者の身元引受人と被害利用者の身元引受人。第三者苦情解決委員にオンブズマン。後見人に他利用者の身元引受人の皆さん。評議員に監事。施設協会の役員各位に地区施設連絡会の施設長各位。それから利用者の皆さんとグループホーム近隣の住民の皆さんということになる。リスクマネジメントを強化して来た積み重ねは、いろいろな方々のご支援によって利用者支援が成り立っている現実を再確認させられるとともに、今回のようなクライシス状態に陥るとその説明責任のしんどさ、煩雑さを痛感する。今後は癒えた被害利用者のフォローを継続しつつ、司法の場で問われるかも知れない加害利用者を側面が見守ることになろう。

 

こんな混迷の中で、職員間でも今回の事件へのひとりひとりの総括が始まる。日頃の鬱積が露呈する確執を内在させつつ、ガバナンスの強化が必要となる事態である。福祉労働特有の寛容さは当面封印である。時に関係者の様々な思想信条の自由は、犯人探しの危険性を有する。「あの時にこうやっておけばよかったのに・・・」「前々から加害者のAはホーム受け入れるべきではなかったんだ!」「最終的には施設長の責任だから・・・」「物言えば唇寒し・・・だよ」等。噂はネットを通じて拡散して行くかも知れない。そうあってはならないと思いつつ、腹の探り合いは様子見となる。もしかしたら、職場の冷静さ、いや沈黙の要因こそ、関係者間の責任のなすり合い、腹の探り合いのカオスが醸し出す故かも知れないと思いつつ・・・?多少卑屈になり過ぎているかも知れないが・・・?  

利用者同士の内輪ゲンカであれば、その場の「ごめんなさい」で済むのだが、傷害事件となると警察が介入し、本人同士の関係から法人責任へと拡大してしまう時系列をはらむ。「予兆があったのでは?」「安全管理義務違反では?」等。当事者の自己選択、自己決定の落とし穴は、一部の反社会的行動特性を持つ当事者であると内心俄かに思うことがあるが、あくまでも本質は「罪を憎んで人を憎まず」と肝に命じる。つまり、赤裸々なカミングアウトこそ「内心の自由」への不当介入となってしまう。例えば「果物ナイフ」の所持。「ヒトを刺そうと思って買った」は犯罪ではない。ヒトを刺してしまえば犯罪となるが、「所持すること」自体、「思うこと」自体は犯罪ではない。しかしながら、職員個々の内心の自由を無碍にしつつ、ガバナンス強化を図らなければならない我が傲慢さの中で、現在進行形の愛の森はピリピリ状況下にある。「こんな常態が継続的にうまく機能するわけはない」と理解しつつ、加害利用者の行く末を案じつつ、迷走の果ての光明を信じつつの模索が続く。

2017/09/01 09:33 | 施設長のコラム

2017年08月01日(火)

忘れてはならない事

加齢化と不摂生の余波で、7月のはじめに一週間程の入院を体験した。

20年ほど前、長期の入院を体験したことも有り、「たいしたことはない」と甘い読みをしていたが、いざ入院となるといろいろな悲喜交々の体験をさせていただき、日頃の利用者への我が関わりの傲慢さを痛切に自戒することになる。

つまり、権力と権威に支配されている患者側に立つと、「患者様」との定型化された顧客満足度の関わりをいただきつつも、腕にネームバンドをとりつけられたモルモット状態に置かれる時と日々が流れたということである。

細かい気づきは我が心の中にしまい込みつつ、さてこれからの人生、残された福祉の道のラスト行程にこの経験値をどう活かすかにかかっているということになろう。

 

入院中は、オペの前後の忙しなさ以外は、暇をもてあそぶ時間が流れた。

持ち込んだCDを聴きつつ、また雑誌や新聞に目を送りつつ、しかしながら、実際は備え付けのテレビの音声を子守唄代わりにして転寝する時間が大半を占めた。最近、「すぐに忘れてしまう」ことにほとほと呆れているのだが、入院中に目を通した情報の中身もいまだ半月前のことではあるが、かなりの部分を忘れていることにまたしても呆れる今現在である。

その中で、インパクトがあったのは三木清氏の「人生論ノート」であり、「100分de名著」(NHK・岸見一郎)で学ばせていただいた。三木氏は、戦前、戦中をありのままに表現し、また耐え忍び、戦後獄死する稀有な人格と根性を持ち合わせた哲学者である。

ベッドの上に身を置く以上、視覚が本に集中する以外は、聴覚の反応は、多床室の他患者たちの話し声や時々巡回して来る看護師の皆さんの優しい声掛けくらいである。壁や天井やカーテンはいかにも病院ならではの模様と形態の空間が視界の大半である。おのずと孤独感にさいなまれる。三木氏は、こんな分析をしている。「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである」。解説する岸見氏によれば、「人が「自分は孤独だ」と語る時、それが周囲に認められたい、注目されたいという社会化された気持ちからくるものであれば、それは「寂しい」という孤独感です。しかし、私は一人であるという自覚に基づいた意識であれば、それはむしろ知性に属する。そこに顕れるのは寂しさより勇気、あるいは覚悟です」というのだが・・・。ふと亡くなった小林麻央さんの闘病映像が脳裏をよぎる。軽率な感想を述べることは出来ないが、麻央さんの勇姿が思い浮かんだのである。

退院して今覚悟することは、「忘れてはならないことがある」ということかも知れない。命は有限であるという現実は、病院内では悲喜交々である。生ある者は、必ず訪れるXデイを迎える前に、やるべきことは一所懸命取り組むしかないということになろう。津久井やまゆり園の諸々の事情で名前を明かせない19名の命が一瞬の蛮行によって最後の日を迎えた悲劇も蘇る。「命あっての物種」を再認識する。そんな単純明快な独り言を心に誓う今現在である。

 

季節はいつのまにか猛暑となった。71年目の戦後を迎える。共謀罪という蛮行の中で再度平和の祈りを念じるのである。愛の森はといえば重い宿題を抱え、ピンチの日々にあるが、命の尊さを繰り返し語るべき「忘れてはならない」季節に入る。

2017/08/01 08:42 | 施設長のコラム

2017年06月30日(金)

7月26日を迎える重い忖度

津久井やまゆり園の凄惨な事件から、一年が過ぎ去ろうとしている。いろいろな組織、団体で一周忌の追悼がなされると思うが、いまだ事件の余波は広く、深く続いていると実感する。

下記は我が思いである。亡くなられた、また被害を受けられた皆さんのことを勘案すれば、憲法が謳う憲法21条「表現の自由」の崇高さを肝に命じつつも、自重、自粛ムードになりつつある世相、また我が身の忖度に心しつつ・・・

 

ある集会では、昔懐かしいアジテーション(扇動)もどきのプロパガンダが語られていた。「収容施設」「優生思想」「脱施設」「ピープルファースト」「時代錯誤」等々の言葉が高らかに、時に苦味を込めて交わされた。

そんな中で、津久井やまゆり園の前保護者会長の尾野氏は、「利用者を新しい津久井やまゆり園に戻して下さい。そこから皆さんと今後の障害者の福祉政策を話し合いましょう」との内容の新生津久井やまゆり園復活への持論を熱弁したのだが・・・。

尾野氏は時に笑みを浮かべ毅然としていたが、私の思いは多勢に無勢の雰囲気の中で、尾野氏に加勢する小さな勇気すら失ってしまい、その集会は寡黙のまま後にすることになる。

主催者の何人かは旧知の皆さんである。長いお付き合いの中で、いろいろな教えをいただき、またいろいろお助けをいただいた皆さんである。しかしながら、皆さんの主張する正論は私の浅はかな脳裏では「空理空論」にしか解釈出来ず、直感的に拒否反応をおこす。「入所施設(収容施設と表現していたが)への赤裸々な批判」「意思決定権を錦の御旗にする利用者本位の自己選択、自己決定」「被害者の匿名に執拗にこだわる人権擁護」「脱施設のみがパラダイスと語るその論陣」「青天井の税金投入を思わせる経済観念」等々である。勿論そう感じ取ってしまう、またその場で固まっていた私自身の見識と度胸のなさもあろうと思いつつ・・・。

場を支配する空気というのは、圧倒的な圧力となることを実感した体験であった。その点、尾野氏の見識と度胸は立派と言わざるを得ない。

津久井やまゆり園の家族の方も数名参席していた。まったく内部事情を知らない我が身が多少なりとも理解することが出来たのは、尾野氏とはまったく相違する意見の方がおいでになること、亡くなった利用者のご家族の方の中には「そっとしておいて欲しい」と連絡を拒絶する方がおられるということであった。事件の余波は新聞には掲載されない場面で、様々な悲劇と混乱を再生産しているということかも知れない。そんな中では、組織は箝口令を敷かざるを得ない・・・のかも知れない。個人は忖度をするしかない・・・のかも知れない。一周忌を迎える今、相互に、また複雑化して「腹の探り合い」という自己防衛が求められる・・・のかも知れない。

しかしながら、その整理整頓の落とし所は19名の尊い命を成仏させることである。厚木精華園の園長だった故田代哲郎氏の墓碑には、「人は他者の存在を通してのみ自分の存在を認識する」と刻まれている。どうも生者の唯我独尊が増幅傾向にあるように思えてならない。ここは「他者の存在を通してのみ」のおもいおもいの重い忖度をするしかない・・・のかも知れない。死者への供養は心穏やかに慎み深くありたいものである。

2017/06/30 21:38 | 施設長のコラム

2017年06月01日(木)

日本国憲法から問いかけられている「昨今」

日本国憲法99条には、「天皇又摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と書かれている。

憲法21条には、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とある。

憲法学者の識見のご判断ということになろうが、昨今の安倍総理の「読売新聞を熟読願いたい」という、2020年の改憲施行への意気込みは、果たして99条違反なのか?はたまた21条の許容範囲なのか、実に不可解と思う昨今である。但し、安倍一強体制の下では、

99条は抑え込まれ気味になった感は否めない。

 

例えば、24条は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とある。

ここに矛盾がおこる。性的マイノリティのLGBTの皆さん同志の婚姻が憲法違反になってしまうということになる。渋谷区や世田谷区等では特例を設けているようだが、当事者の皆さんにとっては改憲が喫緊の課題となろう。どうも憲法9条改正(あるいは改悪)を目指す安倍総理は、公明党や一部の民進党の皆さんの加憲を利用して、自衛隊を憲法に位置付け、また日本維新の党が最重要課題としている「教育費無償化」を利用して、国民の下心をくすぐり、一世風靡しているポピリズムをツールとして利用し、自民党結党以来の懸案であった9条改正(改悪?)を成し遂げようとしていると思えてならない。衆参国会議員の2/3以上の可決、その後の国民投票での1/2以上の賛成により成就させるということである。まさに99条の「この憲法を尊重し擁護する義務を負うべき」国務大臣、国会議員の皆さんによって改憲がなされようとしているのである。

確かに、解釈改憲に限界が出て来た9条のダブルスタンダード(自衛隊は軍隊のようで、軍隊ではない)、昨今の北朝鮮の不届き千万な挑発に対抗する最大限の軍事力は必要であり、日米安保条約の下で、アメリカの核の傘で守られているという現実は否定できないということになろう。

北朝鮮が暴発し、ミサイルが本当に飛んできたら大変な事になる。不吉な想定をすれば、安倍総理の一途さは、我が身にも染み入るということになるのだが・・・  

 

そんな誘惑にかられる昨今であるが、愛の森という障害者支援施設に限定すれば憲法改正(改悪?)にしろ、北朝鮮の動向にしろ、どこ吹く風の平和が続いている。多少の人間同士の覇権争いは見え隠れするが、それを除けばいたって穏やかな、もしかしたら平和ボケのぬるま湯常態の中にある。たまに処遇改善を求める職員の声は漏れ聞こえて来るが、暴動が起こることはないし、鎮圧する必要もない。そんな平和な日々は、日本国憲法が誕生し、その後70年間の平和の重みの恩恵ということになろう。

障害者福祉は時流の中で多様な賛否両論を描きつつ今日に至った結果と規定しつつ、その評価の是非は別にして、平和が続いたがゆえの権利獲得であったことには間違いない。「人間は人生から問いかけられている」というフランクル(「夜と霧」の著者)の教訓に従えば、「日本国憲法は人間に何を求めている」のであろうか?改憲へ進む前に熟慮すべきは「憲法から問いかけられている」国民ひとりひとりの「思い込み」ではない「思い」である。宿題は重い。昨今党内の岸田氏、石破氏等の慎重論に多少の光明を感じ取りつつ、細心の吟味が必要なのである。

2017/06/01 08:38 | 施設長のコラム

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