愛の森コラム
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2015年02月02日(月)

山頭火に学ぶ

 福山雅治氏のダンロップタイヤのテレビCMに種田山頭火の自由律の俳句が披露されている。


  雪へ轍の 一すぢのあと
  雪がふるふる 雪見てをれば


 1926年(大正15年、昭和元年)4月10日、44歳の山頭火は一笠一鉢の行乞放浪の旅に出る。思い切り解説すれば「世捨て人となり、托鉢(物もらい)の気ままな旅に出る」ということになろうか?但し雲隠れの所在不明ではなく、独自の俳風を究める出家であったのだろう。
 総選挙が終わり、案の定与党大勝の中で未年を迎えて一か月。「障害者福祉報酬減額へ」(1月7日の朝日新聞一面)の余波は今のところ不透明だが、長期政権となるであろう安倍内閣総理大臣の下で、数の力は構造改革(コストダウン)を着々と進めると邪推する。山頭火の名句が浮かぶ。


  分け入っても 分け入っても 青い山


 障害者福祉は予定される一年余カ月後の消費税10%時代を迎えてどうなるのたろうか?山頭火の句に学べは・・・


  今日の 道のたんぽぽ 咲いた


 あくまでも未来志向を慮りつつ・・・


  ほととぎす 明日は あの山 越えて行こう


 あくなき前進前進ゆえの使命感の堅持が肝心ということになろうか?
 民主党をはじめとする野党側の総選挙敗北は、アベノミクス選挙という土俵に乗ったのが原因と分析していた識者がいたが、まったくアベノミクスの効能に恵まれない障害者福祉の現実を福祉従事者はどうとらえれば良いのだろうか?山頭火に学べば・・・


  ひさびさ もどれば 筍にょきにょき


 時が流れれば、またサプライズも起こると期待するしかないのかも知れない。
 タカ派の狙いは憲法改正である。三分の二の数の力は強大である。こんな行く末は避けなければならない。山頭火は謳う。


  月のあかるさは どこを爆撃していることか
  雪へ雪ふる 戦ひはこれからだといふ
  街はおまつり お骨となって帰られたか
  みんな出て征く 山の青さをいよいよ青く


ヘイトスピーチに危険ドラック。振り込め詐欺に原発の再稼働・・・。四年前の東日本大震災の「絆」は劣化気味だが、ここは踏ん張りどころの未年である。季節感を無視しつつ、山頭火に勇気をいただき拙稿を終える。


  あざみ あざやかに あさのあめあがり 
 

2015/02/02 11:30 | 施設長のコラム

2015年01月08日(木)

信念あけましておめでとうございます。

信念あけましておめでとうございます。

羊頭狗肉に陥らず、事をなす一念を目指します。
本年もよろしくお願い申し上げます。

平成27年元旦
愛の森学園 職員一同



ひた向きに つつがなき所作 自分道
ひととなり 努め求めて   自我と無我
人の道   包まれながら  自助共助
等しきは  つまり共生   自立の日
紐解いて  つらい気持ちは 除外する
広い視野  連なる難問   自答する

2015/01/08 11:48 | 施設長のコラム

2014年12月16日(火)

グローバルスタンダードの光と影

解散総選挙とクリスマスのイルミネーションの光とジングルベルの音色に午年の顧みる季節である。「いろんな事があったなあ」と自省しつつ、時の流れは未年に向かう。最近感じるのは、IT、マスメディアの進化により、地球が小さく感じることである。ヒト・モノ・カネが国境を超えて、グローバルに移動する。その情報が、手のひらの中のタブレット端末で受け取れる時代となった。特に気になるのが、「イスラム国」というボーダーレスの奴隷制度復活を掲げる武 装集団の暴発であり、もうひとつは「エボラ出血熱」の予断を許さない拡散である。安易な想定は不遜かも知れないが、このふたつの悪魔が不埒にして偶発的に結合し、全世界に跋扈する事態は、人類滅亡への奈落を感じさせる。いやいや集団的自衛権を行使してでも、どう退治すべきかが問われるグローバルスタンダードのさだめであり、総選挙の意味合いということになろうか?


 「腹が減っては、戦は出来ぬ」とてんぷら定食を注文する。仮にご飯に味噌汁、てんぷら、煮物、酢の物。デザートは、フルーツとしよう。ご飯は、「カルフォルニア産こしひかり」、味噌汁も「カルフォルニア産大豆」が使われ、てんぷらのイカは、遠く「フォークランド産」、ころもは「オー ストラリア産小麦」、煮物の椎茸は「中国産」、酢の物のタコは「モーリタニア産」、フルーツは、「地中海産オレンジ」かも知れない。食膳はグローバルがスターンダートとなっている。つまり、食材の調達は全世界との交易なくしては成り立たない。水際でのチェック態勢がなされているとはいえ、例えば「セアカゴ ケグモ」のような外来危険生物が国内で繁殖を始めている。この夏、代々木公園中心に大騒ぎとなった「デング熱」もその要因は温暖化とグローバル化である。 もはや食い止められないとすれば、「エボラ出血熱」も日本国内に入ってくることは想定内ということになろうか?


 障害者福祉の世界もグローバルスタンダードである。「障害者権利条約」がその最たる光であろう。ノーマライゼーションの理念が条約という形で公式に認められたということである。バンク・ミケルセンの提唱から、50余年後の光明である。しかし、光が射す所には必ず影が生まれる。多分「障害者権利条約」という光にも様々な影が生み出されるだろう。不平等、不具合、不統一、不人気、不明確、不確実、不透明等々・・・。福祉従事者はその「不」 を「富」に替える使命が課されることになるのだろうと想像するが・・・?


 時代の趨勢に賛成するか、否かはひとりひとりの判断と責任に転嫁させつつ、カネと権力のパワーゲームが前進後退、右往左往を繰り返す。願いは「イスラム国」「エボラ出血熱」の不安定因子への対策が例えば新薬の登場等によって改善に向かい、更に更に全人類、つまり「障害者権利条約」に則り全障害者をも包含して平和で優しい時代が続くことである。そんな希望を描きつつ、羊の数を数えながら眠りに就く年の瀬の夜である。

2014/12/16 19:02 | 施設長のコラム

2014年11月01日(土)

心技の真偽を審議する

木曽の御嶽山の突然の爆発で、たくさんの命が失われた。大けがを負った登山者の回復を祈りつつ、60余名の死者の魂には冥福を祈るのみである。自然の美しさは人を至福にする。但し、突然の天変地異は人を奈落の底に突き落とす。ハイリターンゆえのハイリスクの恵みは表裏一体である。心技に円熟した登山家であっても、突然の噴石にはなす術なしということである。直近に地震波が観測されており、事前の策がなぜになされなかったのか・・・と疑問を問う識者もいたが、その真偽は神のみぞ知るということになろうか?要は審議の結果、「すべての活火山は登山禁止」とすれば、事は簡単である。世界文化遺産の富士山も永久に霊山として人の立ち入りを拒むことになる。確かに被害はなくなるが、人間の好奇心や冒険心は止めることは出来ない。

 我が職業とする障害者福祉労働は、「心」「技」「体」「知」「忍」の5文字の好奇と冒険に収斂される。「心優しく、支援技術を学び、体力を維持しつつ、知性を重んじ、かつ試練に忍ぶ」労働ということになる。つまり、「ココロ」と「ワザ」の堅持、円熟こそが大切と考える。

 しかしながら、障害者福祉労働は、いまだ慈善的な低賃金労働に喘いでいる。しかも、少なからずの福祉労働者が、「使命感」という響きの良い表現に身を委ね、滅私奉公も厭わずという雰囲気を醸し出す。「利用者」は「利用者様」に変化し、顧客満足度の市場原理の中で、現場の閉そく感、疲労感、悲壮感は蓄積される。この解釈の真偽の審議は、読んでいただいた方に委ねるとして、福祉労働者の枯渇、焦燥への打開作戦のご披露である。
 

  • ①原則総収入の70%は人件費にまわす。但し将来に向けた内部留保、つまりハードウエアの整備、新事業の自己資金の中長期計画に向けて粛々と蓄積する。
  • ②年功序列賃金制度を改め、節度ある成果主義年俸制度に組み替える。
  • ③キャリア、ノンキャリアの二極化した人事体制とする。但し常勤雇用は促進する。
  • ④時代の制度に答えつつ、法人の経営安定のため収益事業を積極的に取り組む。
  • ⑤新採用、中途採用、人材発掘・ハンティングの部署を強化する。また人材派遣の専門分野を積極的に活用し、新陳代謝をはかる。但し無闇な天下り登用はご法度とする。
  • ⑥以上を司る理事会の機能と質の向上に尽力する。
     

「ココロ」と「ワザ」はどこかに消えてしまったかに見えるが、①から⑥をインクルーシブ(包括)する枠組みが、「ココロ」と「ワザ」である。つまり、障害 者福祉施設を運営、経営するには、「カネ」という魔物を如何に福祉の原点に適って如何にコントロールするかということに尽きる。常に真偽の審議が必要であ り、時代の要請を受け入れつつ、大胆な取捨選択も必要ということである。要は人の道に照らした判断、不採算事業の取捨選択に対する大鉈の可否である。社会 福祉法人に課税の話が聞かれる昨今である。「親方日の丸では生き残れない」と落葉を踏み締めつつ考える霜月の夕暮れである。

スマップの「夜空の向こうに」 にならぬ赤とんぼが乱舞する「夕焼けの向こうに」の光明を期待しつつ・・・。

2014/11/01 11:01 | 施設長のコラム

2014年10月01日(水)

たじたじ総論

かつて「ニュース23」のキャスターが故筑紫哲也氏だったころ、「多事総論」という筑紫氏の重い思いを語る時間があった。遠く見識は及ばないため、「たじたじ」な我が身の「総論」を記すことにする。天高く馬肥ゆる秋の真っ最中である。世相は混濁の度合いを深めているがせめて心の色だけは澄み切った青空でいたいものである。佐高信氏の「不滅のジャーナリスト筑紫哲也の流儀と思想」に学べば、こんな教訓が書かれている。


 正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
 正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがいい
 まさに、我が身への自戒を促す明瞭、明晰な教訓である。時に我が身は残念ながら・・・

 

  1. 相手を威嚇するような大きな声でしゃべりまくる。
  2. 殆ど相手に異論、反論、オブジェクションの機会を与えない。
  3. 有識者、権力者の存在を引き合いに出し、相手との格差(非対称性)を強調する。
  4. あの人、この人、その人を引き合いに出し、「みんな私と同じ考えだ」と多数派を鼓舞する。
  5. 最後に「私の言うとおりにすればうまく行く」と諭し、ささやかに「あなたのいう事もわかるけど・・・」と相手に偽善の情愛を示す。

こんな我が身に誰かしたと自己責任を回避しつつ、「渡る世間は鬼ばかり」と自己弁護は欠かさない。上記の教訓とは真逆の我が体質に反省のみである。

 阿川佐和子氏の「しかられる力」によれば、「借りて来た猫」が叱る極意という。つまり、「しかられる力」は、「しかる」極意があってこそということになる。


   か ⇒ 感情的にならないこと
   り ⇒ 理由を説明すること
   て ⇒ 手短にすること
   き ⇒ キャラ(個性、性格)に配慮すること
   た ⇒ 他人と比較しないこと
   ね ⇒ 根に持たないこと
   こ ⇒ 個別的におこなうこと


 阿川氏は、著書の中で、父親に怒られ続けた人生を語りつつ、いまや解釈拡大する「パワハラ」の時代性を揶揄しつつ、「しかられる」ことから学んだ力を披露している。昔は隣近所に頑固おやじや世話好きおばさんが存在し、町内会の治安とやりすぎ、また子供のやんちゃに眼を光らせていた。いまや「プライバシーの侵害」「個人情報保護」の時代性は、目配り、気配り、心配りは、いらぬ「お節介」となってしまったということになろう。

 ふと障害者福祉も利用者本位の自己選択、自己決定の強調が、支援側の目配り、気配り、心配りの回避要因となり、「支援」と「お節介」の境界線の判断が難しくなりつつあり、良かれと思って続いて来た福祉労働が、利用者本位の潮流の中で転換期を迎えているのかも知れない。我が思いとしては、たじたじの福祉労働が心配の種である。

2014/10/01 11:01 | 施設長のコラム

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