愛の森コラム
[先頭]  <<    20   21   [22]   23   24   >>   [最後]
2015年04月30日(木)

タブー増殖への杞憂

薫風の季節に「タブー」を考える。角川必携国語辞典によれば、「ある共同体の中で、したり言ったりしてはいけないとされていること。禁忌。また一般に禁句」とある。世の中様々多種多様、千差万別を是としつつ、選択、決定の幅が広がれば広がるほど「言いづらい事」も増殖気味に存在する。

方や思想信条の自由、表現の自由は日本国憲法によって保証されている。・・・とはいえ、共同体の中では「和をもって尊しとなす」は原理原則である。人類共存への英知は「エチケット」「マナー」「ルール」を守るということになろうか?フランスの風刺画家がイスラムのムハンマドを挑発した作画が原因で報復を受けた事件は記憶に新しいが、果たして「表現の自由」は「他宗教の冒涜」まで認められることなのだろうか?いやいや「表現の自由」に「タブー」は存在しないのだろうか?

我が日本にも「タブー」、または「タブー化」しつつある事柄が存在するように思う。戦後70年にあたり、今上天皇はパラオに慰霊の旅をされた。あまたの人間たちが赤紙一枚で戦地に向かい、命を落とした。天皇の鎮魂の思いに深い尊崇の念を覚える。しかしながら、皇室と戦争の歴史を学ぶことはない。北朝鮮問題も今や多事争論とはいかない。沖縄の米軍基地、憲法9条、原発、遺伝子操作の問題等もなぜかトーンダウン気味である。日本国憲法に認められた「思想信条」「表現」の自由の行使こそが大切ということは皆が共有しているはずなのだが、行動に移せない「タブー」とは何なのだろうか?

障害福祉の世界は、ある意味では「タブー」の増殖にデリケイトな課題が山のように存在する。今や「めくら判」「片手落ち」「つんぼ桟敷」等の微妙な解釈が成立する表現はご法度となった。「バカ」「あほ」「ボケ」「与太郎」も「人権侵害」であり、ご法度である。古典落語に登場する憎めない春爛漫のキャラは障害福祉の世界では手厳しく断罪されかねない事態、いや時代となったということである。タブーとなったことは世界標準であり、基本的人権の尊重という憲法11条の偉大さを実感する。障害者権利条約の時代が喫緊に迫り、「タブー」の増殖は今後も拡大すると予測される。

神奈川県知的障害団体連合会作成の「あおぞらプラン」のあおぞら宣言第1条は、「障害者としてではなく一人の人間としてみてほしい」と宣言している。お説の通りであり、非のうちどころのない宣言文であるが、世間はあまり乗り気ではないように感じるのはいつもの私の僻みだろうか?

確かに「バカ」「あほ」「ボケ」「与太郎」の時代からは確実に卒業した。直接的な差別対応は格段に減少したと思われる。〇〇さんと当事者に話しかける福祉従事者が一般化した。○○様と呼んで下さる福祉施設も多くなって来た。しかし、新たな「タブー」が増殖し始めているのではないだろうか?無味乾燥な「形式(マニュアル)」という「タブー」跋扈への杞憂である。福祉の現場は個性と個性のぶつかり合いである。日々の利用者の皆さんとの喜怒哀楽の中で培われた真剣さが「人権擁護」につながるということである。濁ってはならない。「じんけん」侵害の濁点をとると「しんけん」さが浮き出て来るのである。

2015/04/30 18:10 | 施設長のコラム

2015年03月31日(火)

自らに水のごとく

 労使関係の軋轢は55年体制以来の難物であるが、福祉施設の労使関係は実に巧妙なるお役人のらつ腕でカオス状態に埋没している。

 ①処遇改善の上乗せは、直接処遇支援員のみに限定し、その他の職員には各事業者の自己決定(持ち出し)に委ねさせるというやり方。

 ②時代が求める相談支援は、赤字覚悟の不採算事業として押し付けるというやり方。

 職場の労使関係の和を乱しかねない暴挙は、福祉労働種を使命感という錦の御旗の下であやつる褒め殺し体質を感じるのは我が身の僻みだろうか?

 ピケティさんに言わせれば、「資本収益率(r)は、経済成長率(g)より大なり」との事らしい。週刊朝日の記事の解説によれば、「資本主義社会では、普通の労働者よりも株や土地などを投資する富裕層のほうがますます豊かになるということ」だそうである。我が加齢化している脳みそではその解析は難物だが、どうも富める者はもっと富み、貧しき者はなかなか這い上がれない構造が我が日本の現実ということになるらしい。せめて福祉労働者の給与水準がドクター並とまでは望まないにしろ、看護師並、教職員並になれば、労使関係はうまく行くのにと思うのは、やっぱり世間知らずの僻みだろうか?

 そんな労使を離れて老子の話をする。実在したのか、想像上のカリスマだったのか、いまだ不確定のようだが、その高説は意味深である。「100分de老子×孫子」から引用する。

老子は「上善は水のごとし」と説く。「水は大地に恵みを与え作物を育てたり、人々の喉を潤したりと、さまざまな利益を与えてくれます。さらに川を流れる水に目を移すと、しなやかに方向を変えながら岩を避けるようにして流れていきます。そして最終的には、人の嫌がる低い場所(濁っていたり、湿地であったりする場所)に落ち着きます。こうした水のありようを人間にたとえてみると、争いを好まない謙虚で善良な聖人の姿になります」ということである。

 世間知らずの我が身が社会福祉法人愛の森の施設長を司るからには、「自らに水のごとく」を課すことが出来るかは不確定としても「人の嫌がる場所に落ち着く」覚悟と寛容さが求められるということになろうか?上記の①②の不届き千万な蛮行への怒りの吸収と打開こそが「人の嫌がる場所に落ち着く」ことにつながるということになろうか?

 前月のブログでは年度を一年読み違える間違いを起こしたが、2015年度は2016年度を視野に入れつつ、二年計画の奮闘が始まると弁解がましくも宣言することにする。「自らに水のごとく、争いを好まない謙虚で善良な聖人(我が身として常識人)」を目指したいと考える新年度の始まりである。

2015/03/31 18:14 | 施設長のコラム

2015年02月27日(金)

「信望」を得るには「心棒」と「辛抱」が必要か?

 弥生の春は年度がわりの月でもある。愛の森にとって、また私自身にとって「ツキ」があった2015年度だったか、否かの詳細は改めて自省しなければいけないと思いつつ、来たる2016年度はときめきと輝きのある実績を目指したいと思いつつ、但し身の丈も忘れない謙虚さを伴う挑戦としたいと慮るのである。


 新年度の大きな目標は、愛の森として、また私個人の身の丈として、劣化しつつある信望を勝ち取りたいと思っている。前者の「信望」の欠落は本年度に大きな事業展開が出来なかったこと。戦略、戦術の見直しは必然と考えている。後者の「信望」の欠落は、施設内の不協和音への調律がうまくいかなかったことである。新たな「信望」回復結実の「小異を残して大同につく」人材育成の「心棒」と「辛抱」が肝要と考える。


 世の中の変化は、傍若無人の「イスラム国」の脅迫にも毅然たる対応に終始した安倍政権の下で、着々と日本改造計画が進んで行くと想像する。少子高齢化にして、格差社会にして、超国債発行の借金まみれの下での集団的自衛権の行使、原発の再稼働、特定秘密保護法の拡大解釈が展開し、数の力による憲法改正は必然ということになろうか?私の思考回路にとっては、賛成しかねる由々しき事態の下で我が人生の高齢化も加速する。


 障害者福祉はどうなのか?勝手ながら思い巡らせば、多分来たる消費増税10%となった時点で、介護保険統合への道が突然に打ち出され、同レベルの単価減額に陥り、枯渇する職員確保には、すずめの涙程度の恩恵処遇加算が引き続き設定されるのではないかと考える。「生かさず殺さず」ではなく、「活さず無くさず」の障害者福祉政策の中で何とか運営継続をはかるということになろうと考える。一法人一施設という小さな経営形式は、「包括」と「経営効率」という掛声の下で、合併を余儀なくされ段階的に持ちつ持たれつのホールディングスを形成するということになろうか?「信望」の「心棒」はカネ頼みとなり、かかわる福祉従事者は更なる「辛抱」を余儀なくされると想定するのは誇大妄想だろうか?


 障害者福祉に求められることは、打たれ強い「心棒」と「辛抱」であると考えるとこんな分析が成り立つ。つまり、福祉従事者ひとりひとりがヒューマンサービスの供給者として自立し、受給者である利用者から如何に「信望」を得るかと捉えれば、ひとつはぶれない福祉観の「心棒」であり、もうひとつは逆境を忍ぶ「辛抱」となろう。反面教師の傍若無人的「心棒」であってはならない。また被害妄想的な「辛抱」であってはならない。
自己を円熟させるためにはたくさんの月日が必要となろうが、その成就には飽くなきまい進あるのみである。障害者福祉は利用者の皆さんの年齢差、性差、障害特性差、障害支援区分差、生活環境差、家庭状況差等によって複雑に絡み合い十人十色、千差万別である。ゆえに凌駕への道は難所続きなのである。新年度は、「転機晴朗願うも波高し」を予感する。「信望」を勝ち取る「心棒」と「辛抱」が試される。

2015/02/27 18:07 | 施設長のコラム

2015年02月02日(月)

山頭火に学ぶ

 福山雅治氏のダンロップタイヤのテレビCMに種田山頭火の自由律の俳句が披露されている。


  雪へ轍の 一すぢのあと
  雪がふるふる 雪見てをれば


 1926年(大正15年、昭和元年)4月10日、44歳の山頭火は一笠一鉢の行乞放浪の旅に出る。思い切り解説すれば「世捨て人となり、托鉢(物もらい)の気ままな旅に出る」ということになろうか?但し雲隠れの所在不明ではなく、独自の俳風を究める出家であったのだろう。
 総選挙が終わり、案の定与党大勝の中で未年を迎えて一か月。「障害者福祉報酬減額へ」(1月7日の朝日新聞一面)の余波は今のところ不透明だが、長期政権となるであろう安倍内閣総理大臣の下で、数の力は構造改革(コストダウン)を着々と進めると邪推する。山頭火の名句が浮かぶ。


  分け入っても 分け入っても 青い山


 障害者福祉は予定される一年余カ月後の消費税10%時代を迎えてどうなるのたろうか?山頭火の句に学べは・・・


  今日の 道のたんぽぽ 咲いた


 あくまでも未来志向を慮りつつ・・・


  ほととぎす 明日は あの山 越えて行こう


 あくなき前進前進ゆえの使命感の堅持が肝心ということになろうか?
 民主党をはじめとする野党側の総選挙敗北は、アベノミクス選挙という土俵に乗ったのが原因と分析していた識者がいたが、まったくアベノミクスの効能に恵まれない障害者福祉の現実を福祉従事者はどうとらえれば良いのだろうか?山頭火に学べば・・・


  ひさびさ もどれば 筍にょきにょき


 時が流れれば、またサプライズも起こると期待するしかないのかも知れない。
 タカ派の狙いは憲法改正である。三分の二の数の力は強大である。こんな行く末は避けなければならない。山頭火は謳う。


  月のあかるさは どこを爆撃していることか
  雪へ雪ふる 戦ひはこれからだといふ
  街はおまつり お骨となって帰られたか
  みんな出て征く 山の青さをいよいよ青く


ヘイトスピーチに危険ドラック。振り込め詐欺に原発の再稼働・・・。四年前の東日本大震災の「絆」は劣化気味だが、ここは踏ん張りどころの未年である。季節感を無視しつつ、山頭火に勇気をいただき拙稿を終える。


  あざみ あざやかに あさのあめあがり 
 

2015/02/02 11:30 | 施設長のコラム

2015年01月08日(木)

信念あけましておめでとうございます。

信念あけましておめでとうございます。

羊頭狗肉に陥らず、事をなす一念を目指します。
本年もよろしくお願い申し上げます。

平成27年元旦
愛の森学園 職員一同



ひた向きに つつがなき所作 自分道
ひととなり 努め求めて   自我と無我
人の道   包まれながら  自助共助
等しきは  つまり共生   自立の日
紐解いて  つらい気持ちは 除外する
広い視野  連なる難問   自答する

2015/01/08 11:48 | 施設長のコラム

[先頭]  <<    20   21   [22]   23   24   >>   [最後]