愛の森コラム
2014年08月01日(金)

無垢なる暴走

論語の子路第十三の通釈である。「楚の国の、葉(しょう)の地の長官が、孔子に語った。[私の村に、正直者の直射(ちょくきゅう)という者がいる。 ある時、その男の父親が羊を盗んで訴えられたら、馬鹿正直にそれを隠さず証言した]と。それに対して孔子は、[私の村の正直者は、それとは違う。たとえ悪事であっても、父親は子供の為に隠し、子供は父親のために隠す。そうした、人間本来の、自然の情感を偽らないことが、ほんとうの正直というものだ]と言っ た」。これは、史跡足利学校の論語抄による。


 へそ曲がりとしては、納得出来ない。「正直者が馬鹿を見る」論陣を史跡足利学校に尋ねた。即回答が返送された。「この章で孔子が言い たかったことは、親子間の情愛を重要視したようで、親は子のために情を尽し、子は親のために心を尽すことが人間のもっとも基本的な、自然の情であると考えたようです。この親子間の自然の情を偽らないことがほんとうの正直だと考えたのでしょう」との回答をいただいた。刑法105条にも反映し、親子間についての偽証は成り立たないことになっているという。この解説を寛大にして是ととるか、いやいや原理原則に則れば、理解不能ととるか、またその温度差も様々と考えつつ、私自身は、サプライズを感じた孔子の言葉であった。

 知的障害者の世界は、契約の時代が定着し、利用者がお客様として、人権擁護が常識として関わる福祉従事者の使命となった。利用者の一言一踏足にも神経を使う時代になったということかも知れない。軽んじたり、また不具合な言動が発生すれば、かかわる福祉従事者は窮地に追い込まれかねないということである。


 時に利用者からの無垢なる暴走が発生する。事実無根の福祉従事者へのバッシングである。「××職員に叩かれた」「▽▽職員は依怙贔屓 する」「◇◇職員は私の話を聞いてくれない」等々である。しかしながら、事実無根とは職員側の言い分であり、利用者本人にとっては無垢なる訴えということ になろう。職員は利用者支援に従事し賃金をいただく労働者なのだから、言い分は支援を受ける利用者側に有利に働くことになる。但し、それが虚言や妄想等の 暴走を始めると福祉従事者の精神的、肉体的健康状態は劣化する。必然、巡り巡ってサービス受給者である障害当事者に様々な影響が出るということになる。


 孔子が言わんとする情愛は、親子間の宿命的扶助関係であるが、縁あって福祉サービスの供給者と受給者となった者同士が角を突き合わせ る事態は避けるべきであり、孔子流の情愛がカンフル剤にならないかとの思いが募る昨今である。灼熱地獄は、すでに異常気象ではなくなって来た地球温暖化の 時代であるが、せめて福祉サービスの供給者と受給者の関係に温暖化をもたらす情愛を維持、継続したいと願う葉月の思いである。

2014/08/01 14:14 | 施設長のコラム