愛の森コラム
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2017年03月01日(水)

「鳥の目」「虫の目」「魚の目」

 年度末の思いとして、文芸春秋2月号の小池百合子知事と立花隆氏の特別対談から様々な教訓を学ぶことにする。意外だったのは、政権党に辛口の立花氏の高評価である、「私は、小池さんのような国際的に大きな視野を持った政治家こそ、日本のトップに立つべきではないかと思いますよ」と絶賛している。書かれている国際派の象徴が下記である。

 小池氏は、「私は東京をこの3つのシティにしたい」と言う。「安全な街」「多様性のある街」「環境・金融先進都市」である。ここに小池氏ならではの国際派のカタカナ語が登場する。「セーフシティ」「ダイバーシティ」「スマートシティ」に変身するのである。

 また立花氏の鋭い問いかけ(エジプト史の中での権謀術数)の中で、「非常に重要なご指摘ですね。清濁併せ呑む器量は、政治家に不可欠な要素だと思います。私は「鳥の目」「虫の目」「魚の目」という3つの目が必要だと考えているんです。「鳥の目」は、物事を俯瞰する視点。そして「虫の目」は、ミクロの細やかな視点です」。立花氏に「魚の目とは?」と問われて「トレンドを追う視点のことです。魚の群れは、寒流から暖流へと、エサとなるプランクトンが多い潮流へ動きます。私自身は群れるのが好きなタイプではないのですが、トレンドや人々の関心がどの方向へ流れていくのか観察することは重要だと考えているんです」と語っている。

 知的障害者福祉にその教訓をいただけば、「鳥の目」は、世界と日本の政治、社会、経済情勢からの視点であり、「虫の目」は、日々の利用者の皆さんの喜怒哀楽を察知する視点であり、「魚の目」は、社会福祉法人改革、障害者権利条約、障害者差別解消法、障害者総合福祉法等を勘案した愛の森の経営、運営の視点ということになろうか?

 多少気になったのは、先の「清濁併せ呑む器量」という部分であり、対談の流れの中で、「都知事という立場になって改めて思うのは、「政策」と「政局」、両方のカードを使いこなしてこそ、政治家だということです。・・・そんな中で、“清く正しく”だけでは潰れちゃうわと常々思っています」とホンネを吐露している。

 知的障害者障害者福祉において「清濁併せ呑む」ことが良いか?悪いか?と問われれば、「悪い」と答えるのが常道と考える。しかし、例えばインフルエンザ蔓延のさなかの、施設運営には、時に自己選択、自己決定すべき利用者優先を掲げつつ、半ば押しつけの帰省要請、居室変更、通所の営業停止、ホームからの一時的施設利用等の利用者軽視の感染拡大防止対策の大鉈を振るわざるを得ない。しかも長期化は出来ない。出来高払いの制度体系の中では、収入減が著しく、法人経営を圧迫する。社会的使命は、時としてカオスの状態を呈するということである。

 新年度は、小池氏の「鳥の目」「虫の目」「魚の目」をクロスオーバーさせつつ、想定される難題に対し、そのカイゼンに向けて取り組むしかない。「3つのシティ」ならぬ「3つの視点」を課題としよう。①利用者の重度化・高齢化の視点、②防災・防犯の視点、③人材育成の視点ということにしよう。「清濁合せ呑む」ことに時として踏み切らざるを得ないと覚悟しつつ、そこは慎重かつ節度を持って取り組みたいと誓う年度末の思いである。

2017/03/01 09:00 | 施設長のコラム

2017年02月01日(水)

甘辛の構造

 新年も2月を迎えた。「2」という数字は、指で表すとVサインである。良い事がたくさんあることを願わずにはいられない。しかしながら、感染症の侵入に怯える日々は継続する。満開の梅のたよりに元気をいただき。桜の開花に思いをはせる、危機管理優先が最大使命のひと月である。危機管理といえば、津久井やまゆり園の事件から、はや半年が過ぎ去った。

 「2」という数が入る四文字熟語に「二律背反」という語句がある。「相互に矛盾し対立する二つの命題が同じ権利をもって主張されること」という意味である。拡大解釈すれば、その落とし所は「甘辛の構造」かも知れない。「甘い」という味覚と同時に「辛い」という味覚も肯定される食感である。昨今の障害者福祉においても様々な場面で我が身で感じる「甘辛」問題がある。

 まずは危機管理にかかわる施設運営である。求められるのは、施設運営の安心と安全である。利用者の皆さんの「命と権利」、携わる職員の「命と権利」が何よりも優先される。防犯カメラ、防犯グッズ、防犯フィルム、防犯に係る専門機関との連携などなどの対策である。つまり、「施設自体を強靭化せよ」との薦めである。しかしながら、そう認識しつつ、「高い塀で囲む等の堅牢化はならない、地域との交流は継続せよ。地域移行は進めよ」と付帯注文が必ず入る。考えて見れば、利用者の皆さんの立場からすれば、ごもっともな注文であるのだが、安心と安全責任を問われる事業者側からすれば、「矛盾していない?」、いや「どうすればいいの?」と聞き返したくなる不安感に陥るのである。人命と人権の観点から考察すれば、「強靭化」と「堅牢化」は大違いなのである。

 付随して利用者の「命と権利」と職員の「命と権利」も甘辛の関係になり易いのが福祉現場の根深い問題である。日本国憲法に照らせば、「法の下の平等」であり、日本国籍を有する者は皆平等ということになる。しかしながら、福祉施設においては、「対等に関係」という契約上の暗黙の了解がありながらも「支援する側」の職員と「支援される側」の利用者の皆さんでは、リスクの度合いは異なるということになる。その差を職員側が埋めるということで、平時においては均衡が保たれているのだが、有事においては果たして機能するかどうか?・・・難しいと答えるのが正直かも知れない。利用者を放置して、職員だけが安全確保するとは口が裂けても言えない使命感の中での、平等であるべきはずの「命と人権」の甘辛が見え隠れする。

 「甘辛」に善悪の結論などは出来ないと思う。相反する構造が同居し、形式の上では共存しているかに見える虚像が福祉施設なのである。残念ながら「ホンネ」と「タテマエ」の使い分けを模索するしかない。但し、福祉に職を求めた以上、利用者側を慮りながら、自らの「命と人権」を守り、甘辛の構造の落とし所探しを忘れない意志と意地の継続が大切ということになろうか?

2017/02/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年12月28日(水)

信念あけましておめでとうございます。

信念あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

愛の森学園

利用者一同

職員 一同

酉年に心得は、「飛ぶ鳥を落とす勢い」ではなく、「飛ぶ鳥をさら

に高く飛ばす勢い」でまい進したいと思います。

よろしくお願い致します。

さとりです。ひとりひとりの ゆとりです。

ふと、理念 ふと、理解して ふと、履行

とりあえず とりこし苦労の 疲れとり

とりはらう とりとめのない とりきめは

2016/12/28 19:32 | 施設長のコラム

2016年12月01日(木)

我流・小さな旅

 先々月の秋晴れの一日、今から考えれば、トランプ氏というジョーカーを引き当てるとは想像だにしなかった平和な日に、実家より小さな旅に出る。高崎線新町駅パーキングに愛車を留め置き、高崎線下りに乗車して10分程、高崎駅にて両毛線に乗り換え15分程で県都前橋駅を下車する。駅前通りをとぼとぼ北上し、横断歩道を渡って、下り坂を少し進むと上毛電鉄中央前橋駅に到着する。時間は、10:00少し前、切符を購入し、西桐生駅までの待望の「癒し」の旅愁に出る。「癒し」とは、人が極端に少ない車両での我が儘な時間の流れとガタンゴトンと軋むローカル車両ならではのリズム体感ということになる。小田急線のすし詰め状態とは真逆の2車両に5~6名の乗客(ワンマンの運転者さんを除いて)での発車である。住宅街を抜け、田園地帯が広がる。進行方向左手に赤城山の雄姿を眺めながら、しばし「癒し」の絶頂に浸りつつ、約50分の旅愁は、終着駅西桐生駅で終了となる。駅舎を出て南下し、徒歩5~6分程度でJR桐生駅、目指す足利駅に向け、再度両毛線に乗り換える。ここが暇人の気儘さである。高崎駅から、両毛線で足利駅まで直通だが、「癒し」を求めるための道草が上毛電鉄の50分間なのである。運よく、日中は1時間に1本しかない両毛線の電車に急いで乗り込んで、15分程、足利駅にて下車する。目的はこころみ学園の「ココ・ファーム・ワイナリー」である。駅前交番のお巡りさんに場所を問うと、「歩いて行くにはちょっと大変」とのことで、駅前タクシー乗り場から、贅沢にもタクシーに揺られ、こころみ学園を目指す。以前何度か訪れた足利の街並みの代表格は足利学校である。校内の清楚なたたずまいは一見の価値あり、近くに国宝鑁阿寺(ばんなじ)と大銀杏がある。そんな街並みをキョロキョロ見回しつつ、直線道路を右折すると田畑が目立ち始め、里山が迫ってくる。おしゃれな看板を右に折れ、昇り坂のS字カーブの左右に葡萄畑が山を駆け上るように広がり、瀟洒なレストラン兼ワイン販売のお店に到着する。駅から1,880円の贅沢なドライブの終着である。


 足利市の観光パンフレットによれば、「ココ・ファーム・ワイナリーは、障がい者支援施設こころみ学園の創設者川田昇氏が保護者らとともに設立したワイン醸造所です」と記載されている。沖縄サミットや洞爺湖サミットで各国の首脳に振る舞われたという。「こころみ学園だより」をホームページ検索すると「現在、この葡萄園から一望できるこころみ学園には、130名の利用者がいます。そのうち94歳を筆頭に、ここで働き暮らす人たちのうち、約2分の1が高齢知的障害者です」とあり、「こころみ学園が栽培した葡萄はココ・ファーム・ワイナリーが購入します。ココ・ファーム・ワイナリーは、仕込みやビン詰めなど醸造場の作業を、こころみ学園に業務委託します。葡萄畑や醸造場で働く仲間のために、洗濯を干したり、お弁当を用意したり、縁の下の力持ちのワインづくりを支える利用者もいます」と書かれている。我流・小さな旅に、不可解な明暗が浮かぶ。ココ・ファーム・ワイナリーで、1,600円のコーヒー付きランチを戴きつつ、「都会のおしゃれ」と「終の棲家」が同じ敷地の中で、しかも里山の中に同居している現実を・・・。明暗は名案が浮かばぬまま、足利駅まで逍遥し帰路に就く。新年の信念に名案を持ち越して・・・。

2016/12/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年11月01日(火)

「いい加減」と「良い加減」

 ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典氏と奥様の会話をテレビで見る機会を得た。「お互いいい加減な性格なのです」とのトーク。睦まじく会見に臨むご夫婦の様子を拝見しつつ、また拝聴しつつ、これこそ「良い加減」と思ったのである。生命科学に勤しむ人生、それを包み込み、下支えする人生の成果が「オートファジー(自食作用)」の発見につながったということになろうか?

 障害者福祉の現場においても様々な場面で「いい加減」と「良い加減」の区分けの判断が交錯し、また客観的な評価の対象となる。

 ◎事例1(トイレのサンダル)⇒ 愛の森の3階トイレは、床が陶製タイルのため、ゴム製のサンダルに履き替えることがルールである。ここに2つの「いい加減」が見受けられる。ひとつは、そもそもサンダルを「履かない」利用者の存在である。「履かない」のだから、並べられたサンダルは、使用後もお行儀よく並んでいる。ふたつめは、「どう脱いだのか、定位置に戻らず、散らばり、時にひっくり返っている」サンダルである。ルールに則れば使用後は、定位置に並ぶのが「良い加減」であるのだが、「並んでいる・いい加減」と「散らばっている・いい加減」の日々が続いている。「指導、訓練が足りない」とのご指摘と時代性は「これこそ包容力」「支援者が整理整頓すれば済むこと」との対立軸が悩みの種である。たかがトイレのサンダル、されど障害者福祉の底なし沼的難題でもある。日々の「いい加減」と「良い加減」の交錯は、「利用者の自立」と「支援者の使命」、また「利用者の生きがい」と「支援者のやりがい」に微妙な混乱をもたらしている。

 ◎事例2(ふるまいと佇まい)⇒ 障害者支援施設における職員の「ふるまい」と「佇まい」は、時代性と共に変化している。「エチケット」「ルール」「マナー」と拡大解釈して行くと難題はさらに難解となる。例えば、津久井やまゆり園事件の殺人者は、入れ墨(タトゥー)をしていた。私としては不適切な風俗と思いつつ、パラリンピックのアスリートの中にも入れ墨人間が散見された。文化や習慣の違い、時の流れとは思いつつ、自己選択、自己決定優先の世界標準を感じさせる。「いい加減にしろ」と思いつつ、風俗の変節は昨今の道理なのかも知れない。例えば「会話の輪の真ん中を突っ切る行動」「お客さんの目の前で歯磨きをする行為」等。もしかしたら、注意しても意に介さない、「いい加減」の反逆が起こるかも知れない世代間ギャップを感じ取りつつ・・・。

 ◎事例3(自食作用)⇒ 例えば利用者への不適切な言葉かけである。「壁に耳あり障子に目あり」と諭しても、なかなか改善しない。支援者個々の生育歴やその後の人生観とは思いつつ、「おもてなし」には程遠い発達段階を模索しているのが愛の森の日々である。大隅先生の「自食作用」に学びつつ、自らの「いい加減」言動を顧みるための隠しカメラ映像の公開、隠し録音の公開を赤裸々にご本人に提供さえ出来れば、「いい加減」は、「良い加減」に生まれ変わるかも知れないと思いつつ・・・。そんな人権侵害的行為など出来もしないと達観しつつ、それでも「良い加減」実現への空想に浸りながら、まずは我が身の「いい加減」さ改善の優先を誓う秋の夜長である。

2016/11/01 09:00 | 施設長のコラム

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