愛の森コラム
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2016年03月01日(火)

「〇身〇〇」の2016年度へ

 2015年度も終焉である。暖冬の恵みか、いたずらか、との判断に戸惑いつつ、桜の開花は早いかも知れない。華やぐ季節の始まりであり、木々の新芽や花々の芽吹きに心躍る弥生3月である。  そんな季節は、桜散る儚さもついてまわる。職場の去る人、進学が思うように行かなかった人、愛する人をバス事故で失ったご家族の皆さん、あまたの戦火の中で命を失った人間たち、また逃げ惑う人間たちにとっては、憂鬱の春、痛恨の春ということになる。  そんな季節のゆがみの中で、障害者福祉にはどんな展開が待っているだろうか?視点をマクロ的にリサーチすれば、以下の懸案が背後に横たわる。

・来たる参議院選挙で、与党圧勝予測は憲法改正に突っ走る起点になるのか?
・高齢者への3万円バラマキ、消費税10%と定減税率。格差社会は緩和するのか?
・石油価格下落、株価安、円高の経済動向の中で、抱える借金はどうなるのか?
・東京オリンピックと東日本大震災復興の公共事業は、景気浮揚のエンジンの役割を果たすのか?
・北朝鮮の暴走、中東戦火の余波であるISや難民問題が日本の社会秩序に影響を与えて来るのか?
・アベノミクス第2の矢の2つである「介護離職ゼロ」「出生1.8人達成」に光明が出て来るのか?
・規制緩和の落とし穴である市場原理の過酷さに、例えば大きなバス事故を起こさせないための仕組みを整備することが出来るのか?
その他諸々の課題、問題、難題の中での「障害者福祉対策」は矮小化され、巧妙なる策略の餌食になってしまう危険性が大かも知れない。ここで、「〇身〇〇」の四文字熟語でまとめる。その前に知的障害者福祉は、下記の課題、問題、難題が露呈すると想定する。
・理念重視の課題、問題提起との現場の齟齬である。その最たるものが障害者権利条約の拡大解釈であり、当事者の立ち位置と福祉現場の疲弊の誤差は深刻さを増すだろう。
・次に予算確保の限界と規制緩和の拡大である。一部の社会福祉法人の伏魔殿体たらくが、その他多くの社会福祉法人に長年受け継がれて来た「恕(思いやり)」の使命感の 転換と消耗を余儀なくさせる現実である。現実とは不誠実な市場原理の導入である。
・加えて労働者の権利意識と職業選択の拡大で、福祉労働に携わる若き「恕」の心を有する若者たちの枯渇である。低賃金と重労働が拍車をかける。

 つまり、障害者福祉は、ミクロ的視点から見れば、満身創痍状態になりつつあるということになる。贔屓目に見ても崩壊への浸食は始まっていると考える。その抑止には利用者への謙虚な姿勢と日々の利用者支援、組織防衛にまい進する実行力のみということになろう。それは、平身低頭にして全身全霊の使命感である。 新年度は更なる荒波(社会福祉法人改革等)が立ちはだかる。「恕」の心を維持しつつ、課題、問題、難題に立ち向かう。平身低頭の心得を維持しつつ、全身全霊の挑戦が始まる。

2016/03/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年02月01日(月)

さるすべり 君を想いて 僕は猿

 神学論争とは「結論の出にくい議論」のことであり、同義語に「水掛け論」「堂々めぐり」の表現がある。これはネットで学んだ俄が知識である。如月の寒い朝にとある公園の「さるすべり」の老木を見ながら、一句。そして「結論の出来にくい話」を考える。 「さるすべり 君を想いて 僕は去る」(君とは当事者である)
 昨今の知的障害者福祉は寒風の中で、自らが乾布摩擦で放熱するよう仕向けられた時代性かも知れない。その寒風とは・・・?「結論が出にくい話」の始まりである。

 「知的障害者の意思決定支援の在り方に関する検討委員会の意見」(公益財団法人日本知的障害者福祉協会・平成27年9月8日)によれば、知的障害当事者の「意思決定」について以下の考えに至ったとの事である。

 意思決定支援とは、障害者本人の意思が形成されるために、理解できる形での情報提供と経験や体験の機会の提供による「意思形成支援」、及び言葉のみならず様々な形で表出される意思を汲み取る「意思表出支援」を前提に、生活のあらゆる場面で本人の意思が最大限に反映された選択を支援することにより、保護の客体から権利の主体へと生き方の転換を図るための支援である。

 筋論としてはごもっともと思いつつ、様々な疑問、難問、鬼門が頭の中を駆け抜ける、 要は「無理でしょ!」ということである。勿論温度差の問題性であり、支援する姿勢の提起と想像しつつも、現実味をまったく感じない「結論の出来にくい話」である。ここで変句する。「さるすべり 君を想いて 僕は猿」。ここは猿知恵をお借りするしかない。

 空想の世界から奇特な老猿が我が頭の中に出現する。「見ざる」「聞かざる」「言わざる」ではない「言いたい放題して猿」である。一句読んでいただく。  「ささる棘 抜きようやく(要約?) 痛み去る」

 「結論の出にくい話」を私なりに要約すれば、知的障害者に寄り添う見せかけの問題提起はご法度ということであり、「保護の客体」から「権利の主体」と検討委員会の面々はのたまうが、障がいという神からの定めを受け入れざるを得ない人生は「保護が主体」であるべきであり、「権利」は日本国憲法に準じれば良いのである。いやいや知的障害者の皆さんにとっての現実はそんな生易しい世の中ではないとのご主張も相応の説得力があるとは考える。しかし、少子高齢化で借金を重ねる国家財政の中では身の丈は必然なのである。日々悪戦苦闘している現場の福祉労働者に「結論の出にくい話」の迷路に迷い込ませる空理空論は「喝」である。

2016/02/01 11:23 | 施設長のコラム

2016年01月01日(金)

信念明けましておめでとうございます。

信念明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。          

 平成28年元旦

                社会福祉法人愛の森

                職員一同、利用者一同

 

申年は、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」にならぬよう、誠心誠意前に進みたいと思います。「猿」を「えん」と読み、思いを認めます。

 

支援とは 遠路の先の   円熟なり

演技から 深淵探しの   遠心力

楽園は  ご縁に始まる  延長線

遠慮せず 遅延改善    円滑に

厭世に  ならぬは気炎は 敷衍なり

 

良いご縁に恵まれますように・・・

2016/01/01 09:00 | 施設長のコラム

2015年12月01日(火)

年の瀬に思う

 本年も最終月となり、幸多い年の瀬としたいところだが、パリのテロの惨禍を映像で繰り返し繰り返し見ていると、渡る世間には鬼門が待っていると言い知れぬ不安感が苛まれる。殉教の自爆テロへの防備は、先制攻撃をして敵を殲滅させるか、逆に強固な要塞をつくって敵の侵入を完全に断つか・・・ということになろう。多分両方不可能ということになる。本人が自爆することが正義とマインドコントロールされている以上、こちら側の筋論は無意味である。背景にある民族間の宗教観、貧困の起因である経済格差、インターネットの拡大、石油の利権、十字軍の怨念、過激思想の流布等を抑制させない限り、カオス(混沌)状態は深刻さを増すばかりと想像する。

 知的障害者の世界にもそんな構図があるように思う。利用者本人が理解できない類の自己選択、自己決定を利用者本位に委ねている現状である(例えば、選挙権やマイナンバー等)。「理解できない」は「利用者本位」とは真逆である。「解らない事を決めて下さい」は土台矛盾である。これは意地悪な見方をすれば、お役人や御用学者の皆さんが仕掛けたある種のテロ行為であろう。社会福祉事業者、そこで働く労働者に使命感という美名を与え、「責任」「リスク」を負わせたということである。ゆえに現場は、福祉制度の様々な改変の中で、カオス状態に陥り、一部身元引受人の外部告発と一部労働者の内部告発というテロ行為の恐怖に怯えるという日常になりつつある。いつもいつも他者の目を気にしながら業務にあたる福祉事業者、そこで働く労働者の姿である。要は「理解できない」利用者本位の自己選択、自己決定の背景には、巧妙なからくり(公的責任回避?)が秘められていると不徳の私は解釈している。

 そんな被害妄想的な私を含め職員一同にとあるネットワーク会議からチェックリストが届いた。インパクトのある質問項目は下記である。
・利用者に対して、殴る、ける、その他けがをさせるような行為をおこなったことがあ る。
・利用者に対して、身体拘束や長時間正座・直立等の肉体的苦痛を与えたことがある。
・利用者に対して、わいせつな発言や行為をしたことがある。等々。
「よくある」「時々ある」「ない」の三択で答えよとの事。時々新聞紙上で福祉施設の体たらくが報道されている現実からすれば、作成した方々は善意からのリストづくりだったと想定する。しかし、現場の辛酸を、身を持って体験し、緩和と融和の道を模索しているさ中の私にとってはまさにテロ攻撃を受けた心境にある。「これはないでしょう」というのがホンネである。被害妄想の上乗せかも知れないが、「現場に来て、現実を見て下さい」「現場をもっと信じて下さい」「不祥事が起こる背景にメスを入れて下さい」「福祉予算を上げ、職員の処遇改善に努めて下さい」という思いである。

 未年は「去る」。来たる申年は、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」ではなく、社会福祉従事者一同が「見て」「聞いて」毅然と「言う」志をもって様々な不誠実なテロ行為に抗して欲しいと願う。そんな年の瀬の思いである。

2015/12/01 09:00 | 施設長のコラム

2015年10月30日(金)

無意識、及び間接的心理作戦の妙

地球温暖化が取りざたされて久しいが、霜月を迎えると山々が錦に染まるのは変わらずの自然の姿である。そんな晩秋のひととき実習生とかわした会話のあらましである。

 「Aさんの髪を引っ張る行為や唾を吐きかけるのはなぜなのでしょうか?」
 「多分自分の存在感誇示の表れと思います」
 「言葉が出ないためなのでしょうか?」
 「それは大きいと思います。但し相手からすれば迷惑行為です」
 「迷惑行為をなくさせるためにはどうしたら良いでしょうか?」
 「実に難しい問題です。本人が迷惑を相手にかけていると認識すれば、「いけない」と反省し、やめるかも知れませんが、認識がない場合は遊び化してしまいます」
「なくならないということでしょうか?」
「かつては目には目をのやり方で、その行為の不快さを同じ行為を仕返しすることで本人に辛さを与え、矯正させる手段も行われていました。しかし 概して効果なく、体罰、虐待へとエスカレートしたため、今はご法度です」
「どうすれば良いのでしょうか?」
「理想論としては、環境を変え、他者の刺激をなくす空間を用意することです。しかし、現実の障害者福祉の現場では難題です。支援員が成長し、 利用者の行動特性への目配り、気配り、心配りに努めるしかありません。但し一定の支援を超える問題行動については、施錠や安定剤服薬が必要と考えます」

 以上の会話の中身の是非は読んでいただく方の認識に委ねるとして、ここに支援員間の認識の誤差が出た場合は厄介である。 強硬論と懐柔論のぶつかり合いは温度差はあるもののつきもの・・・。 つまり、利用者の行動特性は、支援員間の心情特性を露わにさせ、時に人間関係に衝突を呼ぶという無意識的な心理作戦の妙が発生するのである。 それでは職員間のこんな場合はどうだろう。何事にも「だんまり」を通す職員がいたとする。本人に注意しても反応、反省なしである。 恙なくルーチンワークをこなし、利用者にはそれなりに親切で、大きな不具合はない。こんなケースにも強硬派と懐柔派の齟齬が発生する。 「組織人である以上、上席者の指摘はルールであり、より強い注意を喚起すべきである」と強硬派は主張する。 懐柔派は「そもそも他者に迷惑をかけているわけではなく、ルーチンワークをこなしているのだから、現状維持を容認すべきである」と主張する。 当のご本人は蚊帳の外で、「虫の羽音を聞きながら、無視を決め込む」という間接的心理作戦の妙に浸っている。 いやはや、障害者福祉の人材育成の難しさは深まりゆく秋の夜長のように、「パワハラ」という危険因子を抱えつつ、深く深く重く重くのしかかる昨今の様相なのである。

2015/10/30 09:00 | 施設長のコラム

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