愛の森コラム
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2016年08月01日(月)

司馬遼太郎氏に学ぶ「蓋然性」

蓋然性は「がいぜんせい」と読む。「多分そういうことになるだろうという、ものごとが起こる度合い。確からしさ」(角川必携国語辞典)のことである。

今般の参議院選挙は、与党圧勝という結果になった。選挙の争点は、ぼかしのはぐらかしに終始したが、ついに安倍政権の最大目的であった憲法改正の目途がしっかり視野に入ったということになる。衆参両議院の3分の2を超える数の力は「環境権」や「地方自治の拡充」を入れ込みつつ、突き進むと想定される。憲法9条の崇高な理念は、70年という歴史にピリオドが打つ日が喫緊に迫る(?)。時代が求める平和は、強い力が必要であり、そのサバイバルには「力には力」で対抗する自衛の軍隊の整備と、友好国との集団的自衛権による「攻撃は最大の防御なり」の姿勢が必需になったという改正(改悪?)である。

そんな世相を勝手に切り取りつつ、司馬遼太郎氏に学べば、坂の上に暗雲が漂い、登った坂から転げ落ちる「蓋然性」が見え隠れする不吉な予兆を感じる。それは、新たに組み込まれる「緊急事態条項」である。戦前軍部が謀略を繰り返した「統帥権」の自己増殖に相通じる危険性である。天皇の判断が3権(立法、行政、司法)を超えるという「統帥権」が、軍部の独断専行の結果として無謀な戦を繰り返したという苦い歴史である。「緊急事態条項」が拡大解釈され、国民世論を扇動して、国民投票によって自己増殖すれば、その「蓋然性」は新たな戦争に突き進む道ということになるのではないだろうか?

 以上の読み解きは、我が思い、あるいは思い込みかも知れないが、障害者福祉に方向転換すれば、平和国家という前提がなければ、成立し得ない領域への「蓋然性」を司馬遼太郎氏の言葉の中から探すことにしよう。

「100分de名著司馬遼太郎スペシャル」(著者・磯田道史)に学べば、氏の「二十一世紀に生きる君たちへ」というエッセイの中で、「もう一度くり返そう、さきに私は自己を確立せよ、と言った。自分にきびしく、相手にやさしく、とも言った。いたわりという言葉も使った。それらを訓練せよ、とも言った。それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。そして“たのもしい君たち”になっていくのである」と。磯田氏は、「これからの世界は、『おれが、おれが』と自分の意見や利益を口にするだけでは何も解決しない時代に入ると思います。現在の世界は、どちらが強いか、どちらの利益を優先するかばかりが議論されているように見えます。グローバル化がさらに進めば、異なる価値観を持つ国家や人間どうしが向き合わざるを得なくなる局面が増えてきます。相手よりいかに優位に立つかに汲々とするより、むしろ、相手の気持ちがわかる、共感性が高いといった、どんな文化の違う人にも適応し理解することができる能力が重要になるはずです。その共感性が高いのが日本人なのです」と読み解くのである。司馬遼太郎氏に学ぶ「蓋然性」は、障害者の皆さんへの「共感性」ということになろうか?飯のタネを障害者福祉に委ねた人生とすれば、障害者支援への「たのもしい君たち」の道が責務ということになろう。憲法改正が迫る浮世に情けをかければ、緊急事態においても、「自分にきびしく、相手にやさしく」する、選ばれし権力者たちの重厚なる使命と責務のまっとうを願うのである。

2016/08/01 09:44 | 施設長のコラム

2016年07月01日(金)

障害者差別解消法とは「なんだい?」

 都知事をお辞めになった舛添要一氏の影に隠れて、すでにお蔵入りの乙武洋匡氏の不倫騒動は、著書「五体不満足」に好感触で衝撃を受けた我が懐かしい想いにとっては新たなインパクトをいただいた。果たして不倫として断罪されるべきなのか、いやいや双方合意の上という浮世の情けで顛末を迎えるのか、今やどうでも良い事になってしまった。但し障害当事者がスキャンダルのネタとなったという事は、逆に障害者のエンパワメントのエネルギーを話題提供したという皮肉な効果をたらした。石原慎太郎氏の著書「天才」でブレークしている故田中角栄元総理大臣は、正妻の他に、神楽坂の芸者さんとの間に3人のお子さんをおつくりになった。昔返りすれば、乙武氏のご乱行も武勇伝とは思いつつ、昨今の時代性では妻へのハラスメントに違いなく、断罪されるべきと私は考える。

 障害者福祉の世界は、4月1日より、「障害者差別解消法」が施行された。合理的配慮順守が課せられ、「障害を理由に差別してはならない」ということになった。障害者福祉の現場では、利用者本位の自己選択、自己決定という意思決定権の受容が関わる一人一人の支援者に課せられ、形の上では、障害者への差別はなくなることになる。実態は紆余曲折が続くと想定しつつ、法の趣旨からすれば、障害当事者の皆さんにとってはパラダイスになるはずである。それでは、法の意味合いは、「支える支援者間ではどうだろう?」「支えられる障害者間ではどうだろう?」と考えると複雑な内情が浮かんで来る。

 例えば「合理的配慮」の解釈の受け取り方である。支援者間でその解釈の尺度に齟齬が生じた場合が想定される。上席者がその齟齬に対し、配下の支援者に注意したとする。配下の職員が了解すれば問題は発生しないが、それをイジメと解釈する職員がいたとすれば、その注意は「ハラスメント」に変化する。 また障害者と認定された人間(福祉サービス受給者)の間の関係では、この法はその範疇に該当しないと解釈できる。例えば、軽度の知的障害者の重度の障害者へのイジメや悪態等、例えば、「車椅子の方」から「目の不自由な方」への見下した発言等は、法外ということになる。様々な障害特性とはいえど、その範疇内の差別に対しては、慎重にとり扱うしかないという「なんだい?」(難題)が待ち構える。

日本国憲法第12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責務を負ふ」とある。

憲法を「障害者差別解消法」、国民を「障害当事者」、不断の努力を「普段の努力」、濫用を「乱用」、公共の福祉を「障害者の福祉」に変換し、少し追記して、文章化させていただけば、「なんだい?」(難題)は少しわかり易くなるのではないだろうか?

「この障害者差別解消法が障害当事者に保障する自由と及び権利は、障害当事者の普段の努力によって、これを保持しなければならない。また障害当事者は、これを乱用してはならないのであって、常に、障害当事者間の差別を醸成しないよう、障害者の福祉全体のために、これを利用する責務を負ふ」という事になることを期待しつつ・・・

2016/07/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年06月01日(水)

拡大解釈「自由」と拡大解釈「規律」

ヘイトスピーチへの規制の法整備が国会にて整った。他民族の人間たちへの尊厳を踏みにじる悪態、暴言、いやがらせの行進が、在日朝鮮人が暮らす街々で繰り返される。俄かに考えれば、言語道断である。しかしながら、エセ愛国主義者たちからすれば、集会、結社の自由は憲法で保障され、「悪態、暴言」と言われる言動は、それは価値観の違いにあり、表現の自由であるとの拡大解釈「自由」を主張する。考えようによっては、シリア難民を拒否するヨーロッパの国々の排他的態度やその背景にある愛国主義的他民族排斥運動も根っこの構造は同じということになろう。「国益」「利権」「既得権」は他民族には絶対渡さないということである。つまり、片方の拡大解釈「自由」を守る為には、他方に拡大解釈「規律」という名の「不自由」を課すという構造である。孔子が説く「中庸」の難しさが人間社会を蝕んでいる。狭義に考えると愛の森学園という小さな集団でも、そんな場面が時に発生する。この冬から春にかけて流行したインフルエンザ蔓延の中でのあれこれである。

それは、インフルエンザ感染者と非感染者への対応である。狭い空間に多くの利用者がひしめく入所施設空間では、感染者から非感染者への新たなる感染を防止する術が求められる。これは、利用者への「身体拘束」で最小限認められている「切迫性」「非代替性」「一時性」を拡大解釈して、感染者と非感染者の居室交換等を事業者の選択、決定として一方的に、即座に行う棲み分け策等である。拡大解釈「自由」を保障したい非感染者のためには、感染者に拡大解釈「規律」という束縛をかけるということになる。それは、「安静にして部屋の外に出ないで下さい」ということである。しかしながら、トイレ、食事等の生理的欲求現象の中では、感染者と非感染者の接触が往々に発生し、新たな感染者が生んでしまう危険性が多々現実化する。それではと・・・拡大解釈「規律」をさらにバージョンアップさせて「施錠」する策、つまり「隔離拘禁」することが頭の隅に浮かぶのだが、先の「切迫性」「非代替性」「一時性」の観点からすると、冷静にして慎重な判断が求められることになる。更に、「人権」と「生命」とどちらが大事なのか?・・・との危機管理を問われた場合はどうか? 多分「施錠による感染防止」というハイリスク回避の「生命優先」の可決が想定される。イコール感染者の「隔離拘禁」てある。果たして、福祉の現場でやるべき選択、決定なのか、否か・・・正直言えば、「やりたくない」拡大解釈「規律」であろう。 

もうひとつは、経営への影響である。感染者拡大に伴い、通院付添、一部利用者の帰省対応、通所生活介護利用者の受け入れの一時的停止、ホーム入居者に発生した場合は、感染者の施設受け入れ、ホームで療養する場合の新たな支援者の配置等が必要となる。相応の収入減と支出増となり、経営面のダメージにつながる。加えて、支援者に感染者が出た場合は、ローテーション勤務に穴が空き、その穴埋め、穴埋めの自転車操業綱渡り状態が続くのである。

つまり拡大解釈「自由」の保障という理念、またその裏側に、上記のような修羅場状態の中で拡大解釈「規律」という名「不自由」さが混沌の中で混乱する現実が入所型の障害者支援施設の実態なのである。事は深刻さを増している。ご理解いただければ幸いである。

2016/06/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年04月28日(木)

「雑毒の善」熊本地震に思う

歎異抄(親鸞・筆者は唯円)に学べば、「雑毒(ぞうどく)の善」(煩悩の毒の混じった善のこと)とは「この世は生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません」と説く。

熊本地震の現実は、あまたの倒壊した住宅の数々、青いビニールシートに隠された絶命されたとおぼしき人間たちの救出、いや搬出、えぐりとられた茶色の山肌、威風堂々だった熊本城の哀れな落瓦、落下した大きな橋脚、避難所に押し詰められたあまたの人間たちの焦燥と行列・・・。テレビ画面に日夜映し出される。その臨場感と緊張感の青天の霹靂の現実が、まさに熊本の陽春の空の下を赤裸々に浸食している。

 

東日本大震災から5年と1か月後の悲劇が早く落ち着きを取り戻し、復興へと向かう事を切に願いつつ、身の丈で我が思いを実行したいと思うのだが、所詮「雑毒の善」である。「何が出来るの?」と自虐的に問い詰めれば、ささやかな募金が関の山ということになろう。災害ボラとして、勇猛果敢に現地へ行ってみよう・・・という難行は、我が自力では土台無理である。ここも、親鸞に学びつつ、「易行・・・他力の仏道」に帰依するしかない。

そんな思いにかられつつ、熊本県、近隣各県の障害者入所支援施設では、日々余震に怯えつつ、どんな運営を続けているのだろうか? 多分、複数の管理職は泊まり込みの寝ずの番をし、物品、食品、薬品等の調達、身元引受人とのやりとり等に奔走している事だろう。

現場の職員たちも自らの家族、親族を労りつつも、利用者支援の最前線で奮闘している事だろう。もしかしたら、施設からの脱出を余儀なくされた職員たちは大勢の利用者をマイクロバス等に分乗させて、受け入れ先の福祉避難所や遠方の障害者施設に身を寄せているかも知れない。また、職員の中には家族、親族に生命の危機、住宅の倒壊等の悲劇のさ中にあるかも知れない。こんな切ない思いの数々も「雑毒の善」に違いない。愛の森学園は通常通り、朝昼夕の3食が利用者に提供され、職員も就業規則に従い、職務をまっとうしているからである。私も17:30には、退勤の時間を迎えることが出来るのである。

 

あまり危機感を煽ってはいけない緊急事態とは思いつつ、避難住民が「我慢の限界」「堪忍袋の緒が切れた」とばかりに飽和状態に達し、避難所の秩序が崩壊し、無政府状態になったら大変なことになる。まずは「衣食足りて礼節を知る」との故事に習い、物流を円滑に機能させることが肝心であろう。警察、消防、自衛隊+米軍、災害ボラの活用ということになろうか? 加えて、広域避難である。「我が家から離れる」事への抵抗感はあろうが、治安は警察や自衛隊に委ね、余震のない遠方への「住」である。ホテル等を一定期間、国費等で借り上げ、滞在するということである。「子ども教育は・・・」「高齢者、障害者の介護は・・・」となるが、まずは元気な人間たちが支えつつの限定的集団疎開がベターと考えるのだが・・・?

しかし、これも「雑毒の善」になろう。大きな流れとしては、消費税10%はこれでなくなるだろう。深読みすれば、東日本大震災の復興、2020年の東京オリンピック、原発の再稼働等に暗い影を落とすかも知れない。その影で気になるのが。障害者福祉への負の影響である。「地域移行」は大丈夫か? これも「雑毒の善」であるが・・・

2016/04/28 19:07 | 施設長のコラム

2016年04月01日(金)

福祉労働は近未来のトレンド

3月のコラムに、「満身創痍」から「平身低頭」「全身全霊」とハイテンションのスローガンを書いてみたが、果たして福祉従事者の心は初心貫徹状態に復活しているだろうか? ひとりひとりの福祉従事者の責務の堅持を期待しつつ、「保育園落ちた。日本死ね」と炎上した保育には光が射しかけ始めたと思いつつ、障害者福祉は来たる参議院選挙のネタにも上らず、改めて「全身全霊」のやり直しというのが現実かも知れない。但し諦めてはいけない。下記の分析が正しければ、近い将来花形の仕事に生まれ変わる可能性が高いということである。過程から言えば、「IT」の目覚ましい進化によって「人工頭脳」が飛躍的に発達し、「ロボット」「3Dプリンター」等が日常生活の中に浸透すると想定される。それでは、どうして障害者福祉が近未来にトレンドに様変わりするかというと価値の基準が大幅に変化し、「カネ」の資本から「ヒト」の資本へと価値が転換するから、ということである。

 とある識者によれば、資本とは「カネを生み出すカネ」のことであると言う。しかし、「IT」の劇的発達は、ものづくり、野菜づくり、物流サービス等を担う労働者の仕事を奪うというのである。また「人工頭脳」の進化は、囲碁の達人に勝利したように、高学歴のエリート層の持つ能力をも凌駕し、そのイノベーションを奪ってしまうというのである。

 例えば、日用品製造工程の完全無人化が可能となり、農園芸にしても無人の野菜、果物、花生育工場が可能というのである。物流も「ロボット」「自動運転車」「ドローン」等がその役割を果たす。また創意工夫が人間の最後の砦と思いつつ、「育成型人工頭脳」にとってかわられるというのである。そう考えれば、「カネ」稼ぎは「人工頭脳」や「ロボット」等に委ね、「ヒト」への投資を大切にする社会構造になるという。それは、「ヒト」があくせく働かない社会であり、善意に捉えれば、互いが「分かち合う」社会の形成である。前者は「ベーシックインカム」の保障であり、後者は「ワークシェアリング」の推進である。

 そう遠くない将来、愛の森学園は、元「製造」「物流」「農園芸」「IT」等に従事していた人間たちが職を求めてたくさん集い、利用者支援その他の業務を生き生きと担う時代がやって来るのである。労働時間は一日6時間、週30時間である。支援者は相互にワークシェアする。賃金は、「人工頭脳」や「ロボット」によって稼いだ国家資本から、ベーシックインカムによって、現金給付が保障されるため、福祉労働は単に可処分所得のみ稼ぐということになる。余裕を勝ち得た福祉労働者により、平和な利用者の日々が保障されるのである。つまり、障害という社会的不利を授けられた利用者への支援その他の業務は「IT」の進化から取り残される要因が大きいため、逆に生き残る可能性が高いということである。

 そんな夢みたいな話があるのか・・・と疑うかも知れないが、テレビで紹介されたアメリカのタクシー会社の倒産は、「スマホ」普及によるマイカータクシー(白タク)の新ビジネス台頭が原因という。時の流れはまさに不透明ということになる。

 北朝鮮やISの暴挙、トランプ氏の不吉な台頭等、時代はまさに不透明ということになる。但し戦争をしないこと。加えて大きな自然災害に備えることを肝に命じつつ、障害者福祉の仕事が近い将来の花形になることを期待し、新年度幕開けの希望の御紹介である。

2016/04/01 09:00 | 施設長のコラム

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