愛の森コラム
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2016年12月01日(木)

我流・小さな旅

 先々月の秋晴れの一日、今から考えれば、トランプ氏というジョーカーを引き当てるとは想像だにしなかった平和な日に、実家より小さな旅に出る。高崎線新町駅パーキングに愛車を留め置き、高崎線下りに乗車して10分程、高崎駅にて両毛線に乗り換え15分程で県都前橋駅を下車する。駅前通りをとぼとぼ北上し、横断歩道を渡って、下り坂を少し進むと上毛電鉄中央前橋駅に到着する。時間は、10:00少し前、切符を購入し、西桐生駅までの待望の「癒し」の旅愁に出る。「癒し」とは、人が極端に少ない車両での我が儘な時間の流れとガタンゴトンと軋むローカル車両ならではのリズム体感ということになる。小田急線のすし詰め状態とは真逆の2車両に5~6名の乗客(ワンマンの運転者さんを除いて)での発車である。住宅街を抜け、田園地帯が広がる。進行方向左手に赤城山の雄姿を眺めながら、しばし「癒し」の絶頂に浸りつつ、約50分の旅愁は、終着駅西桐生駅で終了となる。駅舎を出て南下し、徒歩5~6分程度でJR桐生駅、目指す足利駅に向け、再度両毛線に乗り換える。ここが暇人の気儘さである。高崎駅から、両毛線で足利駅まで直通だが、「癒し」を求めるための道草が上毛電鉄の50分間なのである。運よく、日中は1時間に1本しかない両毛線の電車に急いで乗り込んで、15分程、足利駅にて下車する。目的はこころみ学園の「ココ・ファーム・ワイナリー」である。駅前交番のお巡りさんに場所を問うと、「歩いて行くにはちょっと大変」とのことで、駅前タクシー乗り場から、贅沢にもタクシーに揺られ、こころみ学園を目指す。以前何度か訪れた足利の街並みの代表格は足利学校である。校内の清楚なたたずまいは一見の価値あり、近くに国宝鑁阿寺(ばんなじ)と大銀杏がある。そんな街並みをキョロキョロ見回しつつ、直線道路を右折すると田畑が目立ち始め、里山が迫ってくる。おしゃれな看板を右に折れ、昇り坂のS字カーブの左右に葡萄畑が山を駆け上るように広がり、瀟洒なレストラン兼ワイン販売のお店に到着する。駅から1,880円の贅沢なドライブの終着である。


 足利市の観光パンフレットによれば、「ココ・ファーム・ワイナリーは、障がい者支援施設こころみ学園の創設者川田昇氏が保護者らとともに設立したワイン醸造所です」と記載されている。沖縄サミットや洞爺湖サミットで各国の首脳に振る舞われたという。「こころみ学園だより」をホームページ検索すると「現在、この葡萄園から一望できるこころみ学園には、130名の利用者がいます。そのうち94歳を筆頭に、ここで働き暮らす人たちのうち、約2分の1が高齢知的障害者です」とあり、「こころみ学園が栽培した葡萄はココ・ファーム・ワイナリーが購入します。ココ・ファーム・ワイナリーは、仕込みやビン詰めなど醸造場の作業を、こころみ学園に業務委託します。葡萄畑や醸造場で働く仲間のために、洗濯を干したり、お弁当を用意したり、縁の下の力持ちのワインづくりを支える利用者もいます」と書かれている。我流・小さな旅に、不可解な明暗が浮かぶ。ココ・ファーム・ワイナリーで、1,600円のコーヒー付きランチを戴きつつ、「都会のおしゃれ」と「終の棲家」が同じ敷地の中で、しかも里山の中に同居している現実を・・・。明暗は名案が浮かばぬまま、足利駅まで逍遥し帰路に就く。新年の信念に名案を持ち越して・・・。

2016/12/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年11月01日(火)

「いい加減」と「良い加減」

 ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典氏と奥様の会話をテレビで見る機会を得た。「お互いいい加減な性格なのです」とのトーク。睦まじく会見に臨むご夫婦の様子を拝見しつつ、また拝聴しつつ、これこそ「良い加減」と思ったのである。生命科学に勤しむ人生、それを包み込み、下支えする人生の成果が「オートファジー(自食作用)」の発見につながったということになろうか?

 障害者福祉の現場においても様々な場面で「いい加減」と「良い加減」の区分けの判断が交錯し、また客観的な評価の対象となる。

 ◎事例1(トイレのサンダル)⇒ 愛の森の3階トイレは、床が陶製タイルのため、ゴム製のサンダルに履き替えることがルールである。ここに2つの「いい加減」が見受けられる。ひとつは、そもそもサンダルを「履かない」利用者の存在である。「履かない」のだから、並べられたサンダルは、使用後もお行儀よく並んでいる。ふたつめは、「どう脱いだのか、定位置に戻らず、散らばり、時にひっくり返っている」サンダルである。ルールに則れば使用後は、定位置に並ぶのが「良い加減」であるのだが、「並んでいる・いい加減」と「散らばっている・いい加減」の日々が続いている。「指導、訓練が足りない」とのご指摘と時代性は「これこそ包容力」「支援者が整理整頓すれば済むこと」との対立軸が悩みの種である。たかがトイレのサンダル、されど障害者福祉の底なし沼的難題でもある。日々の「いい加減」と「良い加減」の交錯は、「利用者の自立」と「支援者の使命」、また「利用者の生きがい」と「支援者のやりがい」に微妙な混乱をもたらしている。

 ◎事例2(ふるまいと佇まい)⇒ 障害者支援施設における職員の「ふるまい」と「佇まい」は、時代性と共に変化している。「エチケット」「ルール」「マナー」と拡大解釈して行くと難題はさらに難解となる。例えば、津久井やまゆり園事件の殺人者は、入れ墨(タトゥー)をしていた。私としては不適切な風俗と思いつつ、パラリンピックのアスリートの中にも入れ墨人間が散見された。文化や習慣の違い、時の流れとは思いつつ、自己選択、自己決定優先の世界標準を感じさせる。「いい加減にしろ」と思いつつ、風俗の変節は昨今の道理なのかも知れない。例えば「会話の輪の真ん中を突っ切る行動」「お客さんの目の前で歯磨きをする行為」等。もしかしたら、注意しても意に介さない、「いい加減」の反逆が起こるかも知れない世代間ギャップを感じ取りつつ・・・。

 ◎事例3(自食作用)⇒ 例えば利用者への不適切な言葉かけである。「壁に耳あり障子に目あり」と諭しても、なかなか改善しない。支援者個々の生育歴やその後の人生観とは思いつつ、「おもてなし」には程遠い発達段階を模索しているのが愛の森の日々である。大隅先生の「自食作用」に学びつつ、自らの「いい加減」言動を顧みるための隠しカメラ映像の公開、隠し録音の公開を赤裸々にご本人に提供さえ出来れば、「いい加減」は、「良い加減」に生まれ変わるかも知れないと思いつつ・・・。そんな人権侵害的行為など出来もしないと達観しつつ、それでも「良い加減」実現への空想に浸りながら、まずは我が身の「いい加減」さ改善の優先を誓う秋の夜長である。

2016/11/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年09月30日(金)

無感覚、無関心、無責任

 北朝鮮の暴挙は止まらず、日本海にミサイルが着水した。弾道搭載型の小型核爆弾の開発に成功したのでは・・・?とマスコミは伝えている。まさに米軍基地を抱える日本の安全にとっては大きな脅威ということになる。普天間基地の辺野古移転の是非が問われる昨今であるが、中、露、米との関係も複雑に絡みつつ、軍産複合体制の下で、軍事予算は拡張し続けている。昔々は、「非武装中立論」という論陣があったが今や空理空論となってしまった。国際情勢は日に日に変化する。それに伴い国益の守り方、国民の生命の守り方も変化する。「解釈改憲」が始まり止まらなくなったということである。自衛隊が誕生し、PKOの平和目的海外派遣が始まり、個別的自衛権から集団的自衛権の行使が認められ、武器輸出に、駆けつけ警護にして、武器の携帯、応戦も許される時代となってしまったのである。「解釈改憲」の限界は、憲法改正へと突き進むと想定される。そんな様相に我が思いは、「ヒロシマ」「ナガサキ」を忘れない・・・に尽きるのだが、まことしやかに国際情勢の緊張が語られるプロパガンダには我が身も「非国民」のレッテルを張られないよう自己防衛するしかないという多少の不安を感じつつ、「無感覚」「無関心」「無責任」を装う。

 障害者福祉に目を転ずれば、「パラリンピック」の話題を取り上げるマスコミ報道に安堵を覚える。NHKの放映時間延長は多くの視聴者に感動を与えた。視点を変えると、過日の日テレ系の24時間テレビで様々な喜怒哀楽の日々を送る障害者や病魔を患った皆さんの姿に、歓喜と感涙が全国津々浦々に広がった。「市場原理の真っただ中の下でも「恕」は泰然と堅持されている」と安堵しつつ、その裏番組「バリバラ」(NHK・Eテレ番組)のアンチテーゼは衝撃的であった。「障害をお涙頂戴の具にするな!」という「感情ポルノ」という表現に出会ったからである。「私たち抜きにして私たちのことを決めないで」と宣言した障害者権利条約とはまさに「感情ポルノ」打破の当事者たちの叫びという事になるのかも知れない。

 そんな思いを交錯させているとNHKの「クローズアップ現代」はパラリンピックの内幕を伝えていた。私の無知を思い知ったのは、パラリンピックの発祥が戦争の傷痍軍人の社会参加、生きがい対策から始まったという歴史である。現在においては、屈強の傷痍軍人が各種目に参加し、好成績を上げ、ふたたび戦地へ赴く者もあるのだというのである。平和の祭典が戦争の再建に寄与しているという実態には驚かされた。どうりで世界新が200個出て、日本の金メダルゼロという結果にも頷ける。 

 北朝鮮の暴挙、感情ポルノという反逆、パラリンピックの光と影にため息をつく。「無感覚」「無関心」「無責任」を装う我が身に「喝」入れつつ、「さてどうしようか?」と自問自答する。まずは中秋の名月を眺めつつ・・・

2016/09/30 09:00 | 施設長のコラム

2016年09月01日(木)

私は貝にならない

 ふと「私は貝になりたい」という昔々のテレビドラマを思い起こした。事細かな筋は覚えていないが、山中でアメリカ軍の搭乗員を発見した主人公が、隊長から刺殺を命じられたが、怪我をさせただけで留める。終戦後、捕虜を殺害したという虚偽の罪で戦犯として死刑の宣告を受ける。「もう人間には生まれたくない。生まれ変わるなら、深い海の底の貝になりたい」と遺言を残すという物語である。

 津久井やまゆり園の惨劇のその後を新聞その他で追っていくと、多くの人間たちが「貝になってしまった」ようにも思う。一部の関係者の話は、映像や活字に載るが、いまいち私の思いとの齟齬が気にかかる。私自身の感覚のマヒとも思いつつ。障害者の「人権擁護」を語り、「施設解体」を語っていた学識経験者からの映像、活字が殆ど見られない。「私は貝になりたい」心境なのかと邪推をしてしまうが、いまこそ元気ある「人権擁護」「施設解体」を首尾一貫として主張していただきたいと切に願うのである。

 そんな私も慰霊の献花の折に、数名のマスコミの方に囲まれたが、まさに「貝」のごとくノーコメントに徹した。部外者の戯言は、この空前絶後の大事件を語るにはあまりにも無責任であり、実際知的障害者福祉の現場を日々営む者としても安易な想像力に頼る発言は、巡り巡って日々苦悩している当事者への無用な誤解と心労を生んでしまうのではないかという打算が働いたということになる。要は「貝」になることが波風を立てない一番の保身ということである。

 そんな昨今、ひょんなことからあるマスコミ方と知り合い、彼女の「障害者支援施設体験実習」を受け入れることになった。「障害者施設を語るには、障害者施設の生の実態を知ること」と説くとすんなり記者は合意したのである。

 転向することにした。「貝」でいることに違和感を持ち始めたのである。勿論事件の津久井やまゆり園の内情を語ることは出来ないし、語れるものでもないが、障害者支援施設が抱える様々な問題点は、「自ら語るべき」ではないかと考え直したということである。但し、「利用者本位の自己選択、自己決定」「対等な関係」にして「合理的配慮」「個人情報保護」の時代性である。「貝」に留まる方が揶揄や攻撃は受ける可能性は低いのだが、方向性は、社会的評価の低い障害者福祉の現状打破には「自ら語るべき」と思ったゆえである。

 オリンピックが終わり、祭りの後の秋風に包まれる季節となったが、吉田沙保里氏の銀メダル後のコメントの余韻がいまだ強く残る。「・・・ごめんなさい」「・・・申し訳ありません」「お父さんに怒られる」。「貝になりたい」心境の中で、日本国民に対して遮二無二謝罪する姿に過去の戦争の時代と相通じる国威発揚を思うがままに果たせなかった時の深い陰鬱な落とし穴を感じるのである。長時間労働のブラック企業を叩くマスコミが、一日12時間に及ぶ猛特訓の成果を評価するダブルスタンダードに苦虫を噛みつつ、金メダル本位の優勝劣敗の成果主義にささやかに「喝」を入れるべく、「私は貝にならない」気概をまっとうしたと念じる秋である。

2016/09/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年08月01日(月)

津久井やまゆり園の殺傷事件・私の思い

 修羅場に奔走する現場の人間たちの労苦を想像しつつの私の思いです。空前絶後の津久井やまゆり園の惨劇の中で命を落とした利用者の皆さんに慎んで哀悼の意を表したいと思います。また、怪我をされ、入院している利用者の皆さんの一日も早い恢復をお祈りしたいと思います。奮闘する、かながわ共同会の職員の皆さんに心からエールを贈りたいと思います。

 しかしながら、今回のような夜間帯のテロリスト的、また自意識過剰傍若無人的暴挙には、障害者支援施設は、対抗する術がありません。「施設の利用者の安全は・・・?」「社会福祉法人の使命は・・・?」と求められる責任を回避するつもりは毛頭ありませんが、「出来る事」は最大限やりますが、「出来ない事」もたくさんあるということです。

 障害者権利条約に則れば、同じ特性の人間たちが長期に同じ空間で生活することは「人権侵害」であると解釈されます。まさに、障害者支援施設は、条約に反しながら、日々の生活を積み重ね続けているということです。これは「安定」なのか、「侵害」なのか、微妙な判断が求められる時代性です。

 例えば、推奨されるグループホームで万が一惨劇が起これば、被害を受ける人間の数は確実に少なくなります。但しそもそもグループホームの目的は、利用者の自己選択、自己決定に基づく、「くらし」の充実です。しかしながら、障害者支援施設は解体しませんし、その役割は「安定」の名の下に存在し続けると思います。大きな要因は、グループホームの脆弱な構造にあります。入居するには、家賃、食費、共益費(電気代等)が有料です。少なからずの利用者の受益者負担の出所は、障害基礎年金と雀の涙程度の工賃収入であり、「安定」はしていませんし、少額です。また、建設するにしても、賃貸するにしても相応のコストがかかります。近隣の住民の皆さんとの折り合いも必要です。その上に世話人さん(ホーム利用者の支援者)がなかなか見つかりません。

 話を障害者支援施設に戻します。セキュリティは「自助努力」と「警察との連携」と「地域との情報交換」ということでしょう。今回のような衝撃的事件は防げなくとも、地震や台風などの自然災害には役立つと思います。

 昨今は「ポケモンGO」隆盛の時代性ですが、「アナログ」の日々が続いているのがが障害者福祉の世界です。ここは日本国憲法の崇高な理念である「基本的人権の尊重」に則り、障害当事者のかけがいのない日々を再度ご認識いただき、天界に召される19名の思いを忘れない、インクルーシブな社会創生を目指すしかないと思います。そんな思いで締めくくるにはあまりに大きな悲劇ですが、乗り越えて行きたいものです。

2016/08/01 10:26 | 施設長のコラム

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