愛の森コラム
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2017年05月01日(月)

ゆずりあい

 年を重ねる毎に「物事は即実行」という思いが募り、いろいろな小さな体験、発見の小さな旅に出るようになった。そのひとつが落語を「聴き」に行く実践である。お目当ての落語家は、金原亭馬玉さん。愛の森の職員の身内であるというご縁をこれ幸いに落語会のお知らせが届くようになり、都合5回ほどその話芸を堪能させていただいた。

 今年は正月気分が萎えた頃、上野鈴本演芸場でトリをとるということで、帰省の帰り道、上野駅から数分の演芸場へ足を向けた。入口には馬玉さんののぼり旗が冷たい夜風に震えるように揺れていた。月曜日の夜席であったためか、50名程の客の入りだったが、入れ替わり舞台に上がる落語家さんやその他の出し物を披露する芸人さんたちはそれぞれに「おカネをとるだけのことはある」とプロの芸達者に感心しつつ、トリの馬玉さんの登場である。出し物は「大岡越前」・・・40分近い人情噺を名調子で語りつくしてくれた。これぞ「芸の深み」と思いつつ、お開きとなった後、玄関口で帰り客ひとりひとりに御礼の頭を下げる馬玉さんの人情味にも「伝統の重み」を感じたのである。

 大岡越前の話は、左官の金太郎が3両拾い、落とし主の大工吉五郎に届けるが、吉五郎はいったん落とした以上、自分のものではないと受け取らない。金太郎も自分の金ではないと受け取らない。大賀越前守の名御裁きは1両足して2両ずつ両人に渡し、三方一両損(3者1両ずつ損をする調停)にて解決する。大岡越前の機転と「ゆずりあい」の教訓となる話である。越前守が身銭を切ったのか、税金であてがったのかを詮索するのは野暮な話である。

 例えば、横浜の市営地下鉄、ブルーライン、グリーンラインは全席「ゆずりあい」である。ここで一句(頭文字を使って)・・・

 ゆめうつつ ずばり支援の 利他と利己 相半ばなり 生き抜く証

「夢」と「現」の日常の中で、利用者の「生き抜く」証明とは何か?支援者の「息抜く」証明とは何か?ということである。「利他」と「利己」のバランスの中での「ゆずりあい」が大切ということかも知れない。

 例えば、小田急線栢山駅から徒歩10分程のところに二宮尊徳翁の記念館がある。報徳思想に学べば・・・

 至誠・・・うそ、いつわりのない真心のこと

 勤労・・・自分や地域の向上のために、自分でできる仕事に励むこと

 分度・・・自分が置かれた状況や立場にふさわしい生活をおくること

 推譲・・・分度によって生まれた力やお金を自分の将来や社会に譲ること

 これも「ゆずりあい」への道しるべということになろうか?孔子の思想が土台になっているとはいえ、古今東西共通の教訓は生き続けているというのである。五月の大空に数個の白い雲がゆずりあいながら浮かんでいる。

2017/05/01 09:00 | 施設長のコラム

2017年03月31日(金)

大黒柱の卒業と育成

 新年度を迎え、愛の森は世代交代の船出を迎える。加齢体になりつつある我が身はもう少し踏ん張らせていただくことになるのだが、愛の森の大黒柱であったO氏が卒業した中での不透明なスタートを切るということである。

 愛の森創設時から数年がたった頃、当時の若者だった利用者の皆さん(今や平均年齢45歳程)と縁結びをしたのがO氏であった。私はその後のご縁でお付き合い、いやお役目を共にさせていただいたのだが、まさに愛の森の「芯」のような存在で、愛の森の直接的運営を支えてくれた大黒柱であった。

 そんなO氏がある研修会で「仕事は80%しか満足していない。120%満足させるのが我が生き方、休日のボランテイア活動はそのため・・・」と我が解釈の持論を展開してくれたが、日々の利用者支援、その他諸々の業務に満足することのない飽くなき福祉道追求に脱帽した。昔気質の福祉職員の原点を見た思いがする。そんなワークライフバランスとは反比例する仕事観が大黒柱たる象徴ということかも知れない。

 極端な事例かも知れないが「電通」の労働者搾取の話題に従えば、大黒柱の存在自体が今や風前の灯になりつつあるのかも知れない。労働基準法遵守こそが昨今のトレンドである。しかしながら、障害者福祉の現場は多分昔気質の人間が生き残り続けるであろうと私は想像する。それは法律や制度の高い目標値と日々実践する現場職員の労働環境疲弊のミスマッチが解消困難ゆえである。このミスマッチを縫合するのが、管理職、または名ばかり管理職の滅私奉公的使命感の責務と人情ということになる。廉価な管理職手当の中で重い責任と長い拘束時間こそが崇高なプライドに繋がるという偏屈な労働観でもあるのだが・・・。

 愛の森に照らしても利用者の加齢化、身元引受人の高齢化に対する職員の量と質の衰退、枯渇というアンバランスは深刻さを増している。加えて、昨今国が進める「働き方改革」の目標値(例えば時短)が、障害者福祉労働の現場の実態とは大きくかけ離れているということである。要は慢性支援者欠員状態の組織体制の労働環境下で、利用者への「満足度を上げよ」「地域移行せよ」「生活の質を上げよ」と囁くお役人の皆様のお達しには、自ずと矛盾が生じてしまうということになる。「体罰」「虐待」「放置」に陥らないためにも、サービス「需要枠」と「受容枠」の制御が必要ということになる。あえて言えば財源的に可能な「許容枠」が必要なのである。そんな不具合状況が生んだ救世主が、O氏のような大黒柱の存在ということになろう。

 コンプライアンス(法令遵守)のご時世では、旧態依然たる体質こそが大黒柱の存在と思いつつ、タテマエ「ワークライフバランス」堅持、ホンネ「パブリック・サーバント(税金で食べる召使い)」残存という人情を捨てきれないのが福祉労働観かも知れない。新年度も引き続き「ホンネ」と「タテマエ」のコラボレーションが始まる。時に大きな難題が発生したら・・・そんな時に備えて、O氏の後継となる新たな「芯」探しを始める春の霞のような不透明な心境にある我が心構えの吐露である。

2017/03/31 18:00 | 施設長のコラム

2017年03月01日(水)

「鳥の目」「虫の目」「魚の目」

 年度末の思いとして、文芸春秋2月号の小池百合子知事と立花隆氏の特別対談から様々な教訓を学ぶことにする。意外だったのは、政権党に辛口の立花氏の高評価である、「私は、小池さんのような国際的に大きな視野を持った政治家こそ、日本のトップに立つべきではないかと思いますよ」と絶賛している。書かれている国際派の象徴が下記である。

 小池氏は、「私は東京をこの3つのシティにしたい」と言う。「安全な街」「多様性のある街」「環境・金融先進都市」である。ここに小池氏ならではの国際派のカタカナ語が登場する。「セーフシティ」「ダイバーシティ」「スマートシティ」に変身するのである。

 また立花氏の鋭い問いかけ(エジプト史の中での権謀術数)の中で、「非常に重要なご指摘ですね。清濁併せ呑む器量は、政治家に不可欠な要素だと思います。私は「鳥の目」「虫の目」「魚の目」という3つの目が必要だと考えているんです。「鳥の目」は、物事を俯瞰する視点。そして「虫の目」は、ミクロの細やかな視点です」。立花氏に「魚の目とは?」と問われて「トレンドを追う視点のことです。魚の群れは、寒流から暖流へと、エサとなるプランクトンが多い潮流へ動きます。私自身は群れるのが好きなタイプではないのですが、トレンドや人々の関心がどの方向へ流れていくのか観察することは重要だと考えているんです」と語っている。

 知的障害者福祉にその教訓をいただけば、「鳥の目」は、世界と日本の政治、社会、経済情勢からの視点であり、「虫の目」は、日々の利用者の皆さんの喜怒哀楽を察知する視点であり、「魚の目」は、社会福祉法人改革、障害者権利条約、障害者差別解消法、障害者総合福祉法等を勘案した愛の森の経営、運営の視点ということになろうか?

 多少気になったのは、先の「清濁併せ呑む器量」という部分であり、対談の流れの中で、「都知事という立場になって改めて思うのは、「政策」と「政局」、両方のカードを使いこなしてこそ、政治家だということです。・・・そんな中で、“清く正しく”だけでは潰れちゃうわと常々思っています」とホンネを吐露している。

 知的障害者障害者福祉において「清濁併せ呑む」ことが良いか?悪いか?と問われれば、「悪い」と答えるのが常道と考える。しかし、例えばインフルエンザ蔓延のさなかの、施設運営には、時に自己選択、自己決定すべき利用者優先を掲げつつ、半ば押しつけの帰省要請、居室変更、通所の営業停止、ホームからの一時的施設利用等の利用者軽視の感染拡大防止対策の大鉈を振るわざるを得ない。しかも長期化は出来ない。出来高払いの制度体系の中では、収入減が著しく、法人経営を圧迫する。社会的使命は、時としてカオスの状態を呈するということである。

 新年度は、小池氏の「鳥の目」「虫の目」「魚の目」をクロスオーバーさせつつ、想定される難題に対し、そのカイゼンに向けて取り組むしかない。「3つのシティ」ならぬ「3つの視点」を課題としよう。①利用者の重度化・高齢化の視点、②防災・防犯の視点、③人材育成の視点ということにしよう。「清濁合せ呑む」ことに時として踏み切らざるを得ないと覚悟しつつ、そこは慎重かつ節度を持って取り組みたいと誓う年度末の思いである。

2017/03/01 09:00 | 施設長のコラム

2017年02月01日(水)

甘辛の構造

 新年も2月を迎えた。「2」という数字は、指で表すとVサインである。良い事がたくさんあることを願わずにはいられない。しかしながら、感染症の侵入に怯える日々は継続する。満開の梅のたよりに元気をいただき。桜の開花に思いをはせる、危機管理優先が最大使命のひと月である。危機管理といえば、津久井やまゆり園の事件から、はや半年が過ぎ去った。

 「2」という数が入る四文字熟語に「二律背反」という語句がある。「相互に矛盾し対立する二つの命題が同じ権利をもって主張されること」という意味である。拡大解釈すれば、その落とし所は「甘辛の構造」かも知れない。「甘い」という味覚と同時に「辛い」という味覚も肯定される食感である。昨今の障害者福祉においても様々な場面で我が身で感じる「甘辛」問題がある。

 まずは危機管理にかかわる施設運営である。求められるのは、施設運営の安心と安全である。利用者の皆さんの「命と権利」、携わる職員の「命と権利」が何よりも優先される。防犯カメラ、防犯グッズ、防犯フィルム、防犯に係る専門機関との連携などなどの対策である。つまり、「施設自体を強靭化せよ」との薦めである。しかしながら、そう認識しつつ、「高い塀で囲む等の堅牢化はならない、地域との交流は継続せよ。地域移行は進めよ」と付帯注文が必ず入る。考えて見れば、利用者の皆さんの立場からすれば、ごもっともな注文であるのだが、安心と安全責任を問われる事業者側からすれば、「矛盾していない?」、いや「どうすればいいの?」と聞き返したくなる不安感に陥るのである。人命と人権の観点から考察すれば、「強靭化」と「堅牢化」は大違いなのである。

 付随して利用者の「命と権利」と職員の「命と権利」も甘辛の関係になり易いのが福祉現場の根深い問題である。日本国憲法に照らせば、「法の下の平等」であり、日本国籍を有する者は皆平等ということになる。しかしながら、福祉施設においては、「対等に関係」という契約上の暗黙の了解がありながらも「支援する側」の職員と「支援される側」の利用者の皆さんでは、リスクの度合いは異なるということになる。その差を職員側が埋めるということで、平時においては均衡が保たれているのだが、有事においては果たして機能するかどうか?・・・難しいと答えるのが正直かも知れない。利用者を放置して、職員だけが安全確保するとは口が裂けても言えない使命感の中での、平等であるべきはずの「命と人権」の甘辛が見え隠れする。

 「甘辛」に善悪の結論などは出来ないと思う。相反する構造が同居し、形式の上では共存しているかに見える虚像が福祉施設なのである。残念ながら「ホンネ」と「タテマエ」の使い分けを模索するしかない。但し、福祉に職を求めた以上、利用者側を慮りながら、自らの「命と人権」を守り、甘辛の構造の落とし所探しを忘れない意志と意地の継続が大切ということになろうか?

2017/02/01 09:00 | 施設長のコラム

2016年12月28日(水)

信念あけましておめでとうございます。

信念あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

愛の森学園

利用者一同

職員 一同

酉年に心得は、「飛ぶ鳥を落とす勢い」ではなく、「飛ぶ鳥をさら

に高く飛ばす勢い」でまい進したいと思います。

よろしくお願い致します。

さとりです。ひとりひとりの ゆとりです。

ふと、理念 ふと、理解して ふと、履行

とりあえず とりこし苦労の 疲れとり

とりはらう とりとめのない とりきめは

2016/12/28 19:32 | 施設長のコラム

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