愛の森コラム
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2018年03月01日(木)

自問自答

 いまだインフルエンザと大雪の再来を不安にかられつつ弥生3月を迎えた。桜のたよりを心待ちにしながら、冷え冷えとした空気に身も心も耐え忍ぶ日々が続く。

 ピョンチャンオリンピックの日本人選手の大活躍に感銘と感激をいただきつつ、近々に静かなパラリンピックの熱戦が始まる。崇高なクーべルタン男爵が描いた商売っ気なし、政治色なしの「オリンピック」は過去の遺物となりつつあるようだが、これも進化のさだめとして理解するしかないのかも知れない。薬漬けの国威発揚、冠レース、拝金主義、エリートアスリート育成、国家による管理、政治家達の権謀術数、闇取引の臨戦の場に成り下がってしまったようで、理想から乖離し続ける未来への心配が走る。せめてパラリンピックには優勝劣敗だけではなく「オリンピック」の種火(参加することに意義がある)だけは頑として残していただきたいと切に願うのである。そんな世相の中でも愛の森は、寒風の外とは真逆なヒーターのきいた温室空間の中で、年度末への総決算期を迎える。概略すれば、障害当事者の意思決定の有り様、生活スタイルの有り様に対して「目標値を為し得たか?」「為し得なかったか?」の採点評価づくりである。昨年4月にはかなりセンセーショナルな宿題(利用者個別の意思決定権)をいただきつつ、いまだ四苦八苦の状態から脱し得ないのだが・・・。私自身も私的にも、難題をかかえつつ、年度の締めを司る日々にある。下記は、そんな中で私自身の心情吐露である。

 要は、憲法11条の「基本的人権」、25条の「生存権」への感謝ということになる。但し、難題は、自らの障害認定を認知するハードルの高さに狼狽しているということである。原因は、透析治療が始まったことにある。その治療には高額の医療費が投入され、身体障害者として認定され、様々な権利、権益が付与される。他者がその状況に至った場合は、かかわる支援者は制度、法律に則ったサービス受給への手助けに努め、当事者の生活の質を死守すべき努力が使命となる。しかしながら、ある時点から、サービス提供者が受給者に変わった場合の狼狽を味わうと自らのささやかな矜持を崩壊させかねない何とも言い知れぬ挫折感にさいなまれるのである。これは完全な我が独善の崩落であり、甘えの構造の結果かも知れないと思いつつ、その揺れの中での自問自答の毎日が続いている。つまり、サービスの供給者が受給者に変質した場合に、殊の外憲法の崇高な理念に救いを求める日々、いや感謝の心情が湧き出すのである。健常者として世の中を立ちまわっていた過ぎ去りし日々には、「平等」「公平」「共助」と強く主張していた小生なのだが、社会的弱者の立場として「権利」「恩恵」を預かる側に転換すると、「平等」「公平」「共助」が如何に長い長い歴史の中で培われた偉大な人類の思考回路の結実であり、うらを返せば、ガラス細工のような脆い構造の積み重ねであるということを実感する。人類が進化の中で貨幣を生み出し、その資産の多寡によって、持つ者と持たざる者の間に格差が現出し、徐々に肥大化、その不平等の打開の英知が「基本的人権」「生存権」の保障に繋がったと想定すれば、我が身はその歴史の下で、障害当事者としての生き方が保障されたということになる。

 弥生の寒風の中で、愛の森という小さな社会の中で「参加することに意義がある」を再度見つけ出し、また見直して、自らの方向性が試される自問自答を繰り返す。

 桜の花を心待ちにしつつ、また散り際をも予見しつつ、新年度を迎える。

2018/03/01 09:00 | 施設長のコラム

2018年02月01日(木)

不思議な世界

 新年度早々の愛の森の初夢、いや初サプライズは、利用者の所在不明であった。帰省中の出来事であり、3日後に実父に救いを求め、「一件落着」とあいなった。私自身多少の事前策欠如の罪悪感に苛まれる日々は終了したのだが、はたして「一件落着」なのだろうか?

 まずは、「所在不明」の原因追及が始まる。「年末年始のウキウキムードに本人なりの満足感がいまいち足りなかったのではないか?」との分析となる。「今回はお年玉を知人から受け取っていたらしい」との経済的にリッチであった原因が加わる。「ここ数年所在不明がなかったので、支援者に安心感があったのではないか?」「帰省前の本人との話し合いをしなかったのは今から考えると痛恨のミスだった」との反省の弁も聞かれる。「性的な高ぶりによる放浪癖は如何せん根本的改善は難しい」「社会性を逸脱する利用者本位の自己選択、自己決定は決定的な負の要因なのだが、その習慣性への抑止手段は皆無に等しい」「本人の特性として放浪癖をせめるより、そうした状況を改善させるべき支援者側の姿勢が問題である」等、百家争鳴のディベートはつきない。しかしながら、本人はどう考えているか?実は意外に淡泊である。怒られようと叱られようと、時は流れ、拡散することを百も承知済みであり、「手荒なことはされない」という人権擁護の禁断の世界を知り尽くしているのである。そのうち職員が折れて来ると本能的に察知しているということである。知的障害ゆえの想像力、善悪の判断能力の稚拙さ、他者が心配したり、憤ったりしている気持ちの感受性の欠如は、残念ながら決定的な阻害要因である。「悪かった」「二度としない、いや出来ない」「社会的制裁が怖い」という社会性の理解力が疎ければ疎いほど、再犯(?)は必然となる。ここが知的障害者の特性であり、利用者本位の意思決定権の最大のネックなのである。最後に出て来るのが、恩情派、ないし原理主義者からの諭しである。「支援者が駄目だから、利用者は問題行動を起こすのだ」という類の論陣である。「そもそも愛が足りないから、いけない」「利用者の意思形成、意思表出を怠ったがゆえの行動なのである」「利用者本人が一番困っているのであり、救いを求めるための行動なのである」等。所在不明を繰り返す利用者がいつのまにか善人となり、そうした行動に追いやったかのような支援者が悪人となるという構図である。

 ともあれ、結果として「一件落着」の後は、本人は通常の生活に戻り、多少の反省の色を見せながら、三食お風呂付の生活に戻っている。関わる支援者はその現実への様々な温度差の中で、本人と自らの微妙な距離感に困惑しつつ、されど無視はせずに平常心をつくろいながら接している。放浪は罪ではなく、「特性」なのである。「反省を促す」ことは必要と思いつつ、「悪い」と真に理解出来ない(しない?)以上、「説得」は説得する側の自己満足だけに帰結してしまう。「様子をみる」ことは、「ネグレクト」と誤解されかねないため相応の時間の後は普段に戻るしかない。結論はまたとしても猶予である。今度また彼が所在不明になった時に考えることにしよう。そうさせないためには、がんじがらめの日課強制しかないと我が心の中で悪魔が囁くのだが、それは絶対に出来ない相談である。知的障害者福祉は「不思議な世界」なのである。

2018/02/01 09:00 | 施設長のコラム

2018年01月01日(月)

信念あけましておめでとうございます。

平成30年1月吉日

信念あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。

利用者一同

職員 一同

 

 

本年は、戌年に鑑み、目標は、利用者、職員それぞれがオンリーワン達成を目指し、またワンパターンにならぬよう、ワンダフルなワンシーンの結実に努めます。  

 

下記は我が思いとして・・・          

  負け犬に ならぬ健闘 真剣に         

  謙虚さは 検証重ね 健全に

  剣ヶ峰 吠えてはならない 謙譲に        

  人権は 意見の封鎖 それ違憲        

  ワンアップ 手腕は各自の オンリーワン

2018/01/01 00:09 | 施設長のコラム

2017年12月01日(金)

年の瀬に考える「思想信条」と「幸福感」

少し前の話になるが、台風21号上陸当日の総選挙は低投票率の影響か、はたまた野党乱立の中での漁夫の利か、自民党大勝で終わった。

サプライズは前原前民進党党首の希望の党への合流であったが、テレビの映像を見る限り、特に当時の民進党の総会では混乱なく承認された経緯に驚かされた。小池希望の党党首(当時)とは相入れない思想信条の民進党在籍の多くの代議士が「選挙の為」「当選の為」とその人気にあやかろうとしたのか、はたまたその他の事由なのかは不明であるが、結果は多くの政治家たちから職を奪う結果となった。

考えてみると国会議員の選挙は、「思想信条」を選択する選挙であり、国民に「幸福感」をもたらす絶好の機会でありながら、その根幹の乖離が露呈したということである。

日本の進路を決定する国権の最高機関を担う人間たちには、「保守」「中間」「リベラル」等の思想信条があってしかるべきなのに、風任せの風見鶏ぶりが敗北を招いたということである。小池氏の「排除」の言葉が、その会話の流れから切り取られ、独り歩きしてバッシングされたが、言い方の節度はあろうと思いつつ、本筋は理に適っている。

「安保法制反対」と拳をあげていた皆さんがタカ派の党首に合流する方が、よっぽど不可思議な事なのである。「選挙目当て」「当選目当て」と揶揄されても致し方ない。その結果として「希望」は「失望」へ成り下がり、結果として落選した議員さん、その議員さんにすがった選挙民の皆さんの「幸福感」は、雲散霧消してしまったということになる。  

 

如何に「思想信条」をないがしろにするとしっぺ返しを食らうということになるのだが、果たして視点をスライドさせて障害者福祉の「思想信条」「幸福感」について考えてみたい。 まずは障害者福祉の時代性であるが、ここ数年の流れを抜粋すれば、以下のキーワードに集約される。

「人権擁護」「成年後見制度」「地域移行」「脱施設」「グループホーム」「利用者本位の自己選択、自己決定」「当事者の意思形成、表出をはかった上での意思決定権」「合理的配慮」「ケアマネジメント」・・・  と乱暴にまとめさせていただく。

ここに各法人、各個人の「思想信条」が垣間見られる。大方の組織(法人)は安定経営を前提にして、その使命として利用者の皆さんの幸福を追求しているわけであるが、記載のキーワードに対する戦略、戦術は、「推進派」「中間派」「慎重派」の3パターンの様相にある。愛の森は、多分「慎重派」の領域ということになる。  

 

私の思いとして、知的障害という重く高いハードルへの距離感を禁じ得ない。バートランド・ラッセルの幸福論の中に、幸福は待っているだけではなく、獲得するものだと説いた後で「しかし、あきらめも、また幸福の獲得において果たすべき役割がある」という箇所である。知的障害として人生をまっとうするためには、社会資本の充実を整えさせつつも、市場原理の競争社会の中で、彼らを無理難題なノーマライゼーションの括りに追い込むことは、逆に本人たちの「幸福感」を奪うのではないかと危惧するのである。

「あきらめ」という言葉が差別意識として独り歩きしないことを願いつつ、愛の森は「棒にあらたぬよう」新年戌年に向かう。関係者皆で一緒に歩みながら・・・

2017/12/01 09:49 | 施設長のコラム

2017年11月01日(水)

体からだ

「人生楽ありゃ苦も有るさ」とのフレーズは、懐かしきテレビに映し出された水戸黄門の挿入歌である。

最近持病が悪化しての通院生活が常態となり、ある面「楽」をさせて戴きつつ、「苦」の受容にいまだ狼狽気味である。つまり、我が身も障害当事者となり、生涯「受容」すべき道程に入ったのである。入院中、ベッドの上で考えたことは、唯我独尊で逍遥していた若かりし日の様々な想い出であり、そこに集った知己の方々との愛しき時間であった。

タイムマシンでもない限り、昔返りなど出来ないと理解しつつ、現実回避のノスタンジーに浸るのも我の萎えた精神状態がなせる半ば幻想かも知れない。ともあれ、「病む」と「健康」への執着がわき出して来るのである。何事も「体からだ」と改めて思い知らされるが、現実に戻ると再起なき病根に憔悴する心理状態に陥る日々である。

 

しかしながら、大枚のお金を戴く治療を受けさせて戴き、社会保険や障害者認定の恩恵を受けるという、これもまた時代性の幸運である。反骨の精神(?) で知的障害者擁護の論陣を張って来たつもりでいた身としても、いざ当事者になって見ると複雑な利用者本位の自己選択、自己決定は今だ藪の中にある。自らマイノリティの権利擁護に立ち上がるべきとの使命を脳裏から我がささやかな良識に指令を送って来るのだが、「体」が反応しない。まずは「体からだ」と自己保身で押し返している毎日である。

長く長く知的障害者の仕事に携わり、いっぱしの擁護論も、いかに上っ面の自己満足であったのかと自省する「内心」がある。あえて「外心」と言う言葉で語るならば、津久井やまゆり園事件の病根が我が深層心理に強く内在していたことを正直に自問自答する「病魔」のささやきと我が受け皿となるべき良識との葛藤が続いている。「いざ鎌倉」ならぬ「いざ真っ暗」の世界に埋没しかねない精神状態の打開が模索される。

そんな日々の鬱屈の解消してくれるのは、やはり「忘却」である。治療の過酷さ、またその忍耐から逃れさせてくれるのは、まさに「忘れる事」なのである。ささやかな使命感の下で、日々のルーチンをこなす仕事の大切さ、また何気ない利用者との喜怒哀楽に心の中で感謝を重ねる日々の「忘却」に安堵する。要は小心者ゆえ、当面病魔の「受容」は猶予して、「忘却」に身を委ねることにするという結論に至ったということである。

 

支援者側としての福祉の王道は、「パターナリズム」ではなく、「パートナーシップ」であるという崇高に理想を多少拡大解釈させていただき、「中庸」の道程の中で、身の丈の「体からだ」の中で、「内心」をリセットさせつつ、「外心」のホウレンソウは正直でありたいと宣言したい。残された我が工程表の最終章に汚点を残さぬよう心したいと考えるのである。季節は彩の錦から、落葉舞い散る風景に移って行く。人生観の重みが深まる季節である。

2017/11/01 09:46 | 施設長のコラム

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